野球クロスロードBACK NUMBER
腰痛との戦い、FA、金本の言葉……。
藤本敦士が語る野球人生での“悔い”。
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2013/09/13 12:00
阪神からFAで移籍したヤクルトで、ユニフォームを脱ぐ決断をした藤本敦士。通算1000試合出場を果たすことはできるのか。
「記録」と「記憶」。
引退会見ができるような選手には、たいていいずれかの要素が備わっているものだ。
8月26日に引退を表明したヤクルトの宮本慎也のように、2000本安打を達成した名球会選手であれば、記憶、記録ともにインパクト十分である。
9月9日に引退を発表したチームメートの藤本敦士は、どちらかと言えば記憶に残る選手だった。
通算2126安打(9月12日現在)の宮本と比べれば、3分の1にも満たない619安打など、記録の面ではさほど際立った項目は見当たらない。
それでも藤本は、数々の記憶を野球ファンに与えてくれた。
阪神時代、主力選手として2003、2005年のリーグ制覇に尽力したこと。そして、自らの意思で人気球団を去り、ヤクルトへ移籍したこと……。
会見で藤本は、現役生活をこのように振り返っている。
「今年で36歳になりますが、ここまでできるとは思っていなかった。5年、10年という単位ではなく、1年、1年がむしゃらにやってきた。気がついたら13年間が経っていた。ここまでできたのは満足。後悔はない」
「ひとつでも悔いを少なくして辞めたいんです」
公にはそう語った。ただ、'10年にヤクルトへ移籍したばかりの頃、藤本は自らの想いをこのように述べてもいた。
「悔いなく引退できる選手なんてほとんどいないんじゃないですか。絶対に悔いが残るはずなんです。だから僕は、ひとつでも悔いを少なくして辞めたいんです」
後悔を減らす作業。藤本にとってその答えこそ、「がむしゃらに野球人生を送ること」だったのかもしれない。
そもそも、藤本はアマチュア時代、「プロ野球予備軍」の土俵にすら立てないような選手だった。
育英高校(兵庫)時代には主将として甲子園に出場し、名門・亜細亜大野球部に入部する実力は持っていた。しかし、この時すでに椎間板ヘルニアに悩まされていたのだ。