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代表監督選考で日本とこんな差が!
韓国サッカー協会が南アで得た確信。
text by
田邊雅之Masayuki Tanabe
photograph byGetty Images
posted2010/09/17 10:30
ヒディンク後の韓国代表はどうなっていたのか?
――ヒディンクの下、日韓大会でベスト4に進出した韓国は、ポルトガル人のウンベルト・コエリョを挟む形で、3人のオランダ人監督(ヨハネス・ボンフレール、ディック・アドフォカート、ピム・ファーベーク)を起用していった。これはやはりヒディンクの路線を踏襲しようとしたからだろうか?
「いや、そうじゃない。ヒディンクが辞めた後の韓国では、彼の遺産を継続すべきだというようなコンセンサスはなかった。外国人監督がいいという意見はあってもね。
だからまずポルトガル人のコエリョが監督になった。たしかにコエリョは1年ほどで退任して、次にはオランダ人のヨハネス・ボンフレールが監督に就任したけど、その時も韓国協会は、フランス人のブルーノ・メツを監督にしようと動いていたんだ。
むしろヒディンク路線に戻るべきだという声が高まったのは、ボンフレールがこけて、2005年にディック・アドフォカートとピム・ファーベークのオランダ人コンビが起用された頃からさ。二人はボルシアMGやUAE代表で監督とアシスタントコーチとしてコンビを組んでいたし、ファーベークはヒディンクの下でコーチをしていた経験もある。だからファーベークがアドフォカートと一緒に戻ってくれば、ヒディンクの方針を継承できるだろうと期待されていたんだ。それは2006年のW杯ドイツ大会の後、ファーベークが自動的に監督に昇格していることからもわかると思う」
韓国サッカー協会が下した、一世一代の決断とは?
2007年、韓国代表に一大転機が訪れる。アジア杯で3位に終わったことを受けて、オランダ人のファーベークは代表監督を辞任。後任として韓国協会は外国人監督ではなく、韓国人の許丁茂(ホ・ジョンム)を抜擢したのである。
――この人事は、ヒディンク以来ずっと続いていた外国人監督路線と袂を分かつという意味でも、かなり勇気のいる決断だったんじゃないだろうか。
「まあ結果的にはそうなったけど、最終的に許丁茂に決まるまで、協会は外国人路線を変えるつもりはなかったんだ。人選としてはフランス人のジェラール・ウリエと元アイルランド代表監督のミック・マッカーシーを考えていたし、実際にマッカーシーとは契約の寸前まで進んでいた。でもマッカーシーの話が流れたから、あくまでも代案として許丁茂が起用されることになったんだよ」
――許丁茂が選ばれた理由は?
「率直に言うと、許丁茂はあまり人気のある監督じゃなかった。彼はヒディンクが就任する前に韓国代表の監督をしていたけど、2000年のアジアカップでしくじって辞任している。それに2005年にKリーグの全南ドラゴンズの監督になってからも、目立った成績を残せていなかったからね。
ただ2006年から韓国のFAカップを連覇したことでトーナメントに強い監督というイメージが生まれていたし、監督としてのキャリアは韓国人の中でも抜きん出ていた。しかも現役時代はPSVでもプレーしたことのある花形選手だったから、同世代の監督から支持されたんだ」