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代表監督選考で日本とこんな差が!
韓国サッカー協会が南アで得た確信。
text by
田邊雅之Masayuki Tanabe
photograph byGetty Images
posted2010/09/17 10:30
ついに船出した新生日本代表。日本サッカー協会が岡田武史監督の後任として発表したのはイタリア人のアルベルト・ザッケローニだった。交渉が異例ともいえるほど長期化したこと、そしてクーマンからファンバステンに到るまで様々な名前が浮かんだことなども含めて、この人事はいまだに様々な憶測と波紋を呼んでいる。
日本とは対照的に、新体制へきわめてスムーズに移行したのが韓国代表である。韓国サッカー協会は、W杯南ア大会が終了したわずか10日後には後任人事を決定。しかも外国人指導者ではなく、2期連続の韓国人監督となる趙広来(チョ・グァンレ/写真)を起用した。
このような日韓の差はどこから生まれているのか。韓国の代表的なスポーツ紙「スポーツ・ソウル」でサッカー担当記者を務める李之碩(イ・ジーソク)氏に、韓国における代表監督選びの内幕、そして韓国側から見た日本サッカー界の姿について尋ねてみた。◇ ◇ ◇
――韓国の場合は新体制の発表も早かったし、監督に韓国人を起用するという方針も貫かれている。さらに言うと、南ア大会でのプレーぶりを見てもチーム強化の方針にぶれがないような印象を受けた。歴代の監督人事も含めて、フース・ヒディンクの遺産を忠実に受け継いできたように思えるけど、実態はどうなんだろう?
「ヒディンクが敷いた路線を韓国サッカー界がまっしぐらに進んできたというのは、少し拡大解釈しすぎているんじゃないかと思う。ここに来るまでには様々な紆余曲折があったわけだし、そもそもヒディンクが監督になったのだって、ずいぶんと運やタイミングに助けられた部分もあったわけだから」
互いに絶好の機会だったヒディンクの韓国代表監督就任。
――ヒディンクの監督就任が運やタイミングに助けられたというのは、どういう意味で?
「2000年の終り頃、韓国では代表監督探しが急務になっていた。シドニー五輪やアジアカップで惨敗したことを受けて協会の技術委員会が改編され、とにかく外国人監督が必要だと叫ばれていたんだ。
第一候補に挙がっていたのは、'98年のW杯でフランス代表を母国優勝に導いたエメ・ジャケ。ヒディンクは2番目の候補だった。でもジャケはもう代表監督をしたくないということで誘いを断ってきたから、ヒディンクが第一候補に繰り上がった。ヒディンクは母国オランダ代表を率いて、W杯フランス大会のグループステージで韓国に5-0で大勝していたから、インパクトも強烈だったんだ。
しかもラッキーなことに、韓国協会がオファーしたときヒディンクは無職だった。フランス大会の後、レアル・マドリーに招かれたけどすぐにクビを切られたし、その後、監督になったベティスも成績不振で解雇されていたからね。
ヒディンクは自分の名声が地に落ちていることを知っていたし、このままでは他から声がかからないこともわかっていたはずだ。そんな彼にとって、W杯開催国の代表を率いるというのは名誉を挽回する絶好のチャンスになる。だからこそ韓国の誘いを受けたんだと思う。彼ほどのキャリアがある人間にしてみれば、決して魅力的な話じゃなくてもね」