野ボール横丁BACK NUMBER
ワンランク上の投手になるために……。
いま斎藤佑樹に必要な「剛」の投球。
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byShigeki Yamamoto
posted2012/08/29 11:20
7月30日から二軍暮らしが続いている斎藤佑樹。「最低でも2試合は下(二軍)で投げてもらう」(吉井理人投手コーチ)と早期昇格の可能性もあったようだが、二軍で4連敗。防御率は6.35と低迷を続けている。
甲子園の決勝以上に鮮烈だった、西東京大会の決勝戦。
だが、斎藤の中には、「剛」も眠っていると思っている。
早実時代の斎藤といえば、やはり駒大苫小牧戦だろう。'06年夏の甲子園の2日間にわたる決勝戦の印象は、あまりにも強過ぎる。
だが、その3週間前。7月30日の試合は、ある意味駒大苫小牧戦以上に鮮烈だった。あの投球ができたからこそ、その後、甲子園の頂まで登り詰めることができたのだとも言える。
斎藤も、こうこぼしていたことがある。
「あの試合の映像、テレビとかでもぜんぜん流してくれないじゃないですか。なんか、忘れられてる気がしますね……」
西東京大会決勝、早実対日大三戦。この試合で、斎藤は力の投球ということでいえば、ひとつの到達点を極めた。当時の自己最速タイ149キロをマークしただけでなく、試合時間は3時間48分、球数も221球にもおよんだにもかかわらず、終盤、球の力は衰えるどころか、むしろ勢いを増していった。そしてチームは延長11回、5-4でサヨナラ勝ちを収め、2季連続で甲子園出場を決めた。
「試合後半に入っても、147キロとか148キロがばんばん出てた」
斎藤が振り返る。
「あの試合は、後半に入っても、147キロとか148キロが、ばんばん出てた。フォークも落ちていたし、コントロールもぴしゃぴしゃに決まっていた。ただ、ほとんど全力でいっていたので、スキはあったと思う。だから、レベル的には甲子園が終わったあたりが9、10だとしたら、あのときはまだ5、6ぐらい。でも、ああいう試合を経験したからこそ、甲子園で押すところと引くところがわかるようになった。あの試合、どっかで手を抜いていたら、甲子園であのレベルまでにはたどりつけなかったと思う」
あのときの投球は、発展段階、つまり自分を超える過程で、一度あるかないかの投球だった。
ただし、これだけは言える。今につながる斎藤の原点は、駒大苫小牧戦ではなく、あの日の日大三戦にあった。
もうワンランク上の投手になるために――。
今、必要なのは、あのときに見せたような「剛」の斎藤である。