自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
お江戸の中心部をグルッと巡る。
外堀通りは不思議な名所密集地帯!
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2012/06/27 06:00
市ヶ谷駅の遠景。外堀沿いにはJR総武線など重要な鉄道も走る。ちなみに、この市ヶ谷駅から飯田橋駅の間の外堀直下には、地下鉄の広大な車庫が広がっている。
四谷怪談は、実はまったくの作り話だった!?
江戸時代の初期、この地に確かにお岩さんは住んでいた。健気で美しい女性だったという。夫の田宮伊右衛門(今でいうと安月給の下級武士だったという)を常に守り立て、夫婦仲むつまじかったそうだ。自らも商家に奉公に出ながら家計を支え、屋敷にあった祠(これが於岩稲荷田宮神社の前身)への信仰厚くして、やがて家運も栄えたという。
家貧しくとも、真面目に健気に生きていれば……と、まあ、ここにあるのは、貞女お岩さんの、ささやかな成功物語なのだ。
で、お岩さんの人徳もあってか、この田宮神社は「商売繁盛」「芸能・興行の成功」に霊験あらたかとされた。ちなみに現在では、交通安全や入学試験にも効能あり、とある。
それがなぜ四谷怪談になったかというと、お岩さんがいた頃から200年も経った後、歌舞伎作者の鶴屋南北が創作したからだ。
南北は、江戸っ子にウケるような実在の人物をモデルに、バーンと刺激的なエピソードを与え、怪奇譚を作れないかと思っていたらしい。で、四谷のお岩さんに目をつけた。庶民人気が高い。でも、品行方正なお岩さんじゃつまらない。もっと刺激的なお化けにしてしまえ、と、ストーリーを創りあげたのが、四谷怪談なのである。
それが大ヒットした。お岩さん像はそこから一人歩きをはじめた。
つまり、四谷怪談にモデルはいる。しかし、話の内容はほぼ事実無根なのだ。
いやー、少年時代のまことしやかな「祟り話」はいったい何だったのか。外堀通りに戻り、自転車に乗りつつ考える。昭和40年代から50年代にかけて、情報というものは、かくもあやふやなものだったのだなぁ、とか。ふと見ると、市ヶ谷に「亀岡八幡宮」ってのがあって、ちょっと寄ってみる。
繰り返すけど、こうして気軽にすぐ寄れるのが自転車のいいところ。で、自転車には不似合いな急坂を登り切ったら、亀岡八幡宮の本殿があった。ここも芸事に霊験あらたかだそうで、古びてこぢんまりとした、いい感じの八幡宮に、稲荷神社が併設されている。で、その一角に奇妙な供養塔を発見したぞ。
石碑に「当地所因縁諸霊供養塔」とある。
解説なし。因縁、諸霊の正体分からず。なんだなんだ、何だか、こっちの方がはるかに恐いじゃないか。
実は神楽坂が「花街」だったのは大正時代のひとときだった。
外堀通りを北上していくと、次に出るのが「神楽坂」の文字だ。神楽坂といえば、やはりチントンシャンであろう。
東京山手線のほぼ真ん中あたりに位置するこの界隈は、芸者さんがいて、置屋さんがあって……、という印象が強い。現代において特にその印象を形作ったのが、田中角栄元首相で、この神楽坂にお二号さん(昭和な言い方)がいたとかいないとか。
実はこの神楽坂、いわゆる「花街」として賑わったのは、大正時代のほんの一時期に過ぎなかったらしい。
すぐに関東大震災。東京の多くが灰燼に帰した後、比較的被害が少なかった神楽坂にはバラックの夜店が多数建つようになり、それが商店街に発展し「ハイカラなミニ銀座」となった。一説には「○○銀座」の元祖だという。まだ地下鉄がなかった頃、このあたりにハイカラな街が欲されていたのだ。
だからというべきか、神楽坂には、今も伝統とハイカラ、和と洋の2つが混在している。つまり、料亭も多い一方で、フランス料理屋も多いのだ。
これは、付近に東京日仏学院などのフランス系施設が多いことも影響しているのだろうけど、その少し前から、尾崎紅葉、泉鏡花など、作家や文化人が多数住んでいたことも理由のひとつだという。
神楽“坂”の名の通り、坂を自転車で上っていく。
ちょうどいい程度の急坂ではあるが、ここはアタックをかけてはいけない。特に「坂バカ」の人々。自転車は「通ってもいいが徐行」である。なにしろ人が多いから。
でも、この坂は、ギアを軽くしてゆっくりと登るくらいがちょうどいいのだ。数々の名店、有名店、をはじめ、周囲には見るべきものがたくさんある。
毘沙門天のまわりの路地を入れば、おお、こんな都心に、と思えるような、石段、旧家、路地、鉢植え、が並ぶ。石段はいずれもゆるいから、自転車を抱えて越える。そういうポタリングも悪くない。