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【追悼・木内幸男監督】「勝って不幸になる人間はいない」常識を超えた60年の指導法とは
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byShigeki Yamamoto
posted2020/11/25 06:01
県大会準決勝で藤代に破れ、球場を後にする木内。陽気な中にも寂しさが覗いた
“木内マジック”を定着させたPLとの決勝
球界広しと言えども、魔術の使い手と称され、それが定着した監督は3人しかいない。西鉄を始めとするプロ3球団を優勝に導き、魔術師と称された三原脩。その三原の教え子、仰木彬。そして、木内幸男だ。
木内マジック――。
いわゆる常識では考えられない作戦や起用法がズバリ的中することから、木内の采配はいつの頃からか、こう呼ばれるようになった。
その印象を決定づけたのは、取手二高を率いて茨城県勢初となる全国制覇を果たした1984年夏、PL学園との決勝戦で見せた継投策だった。当時のPLには「KKコンビ」こと、2年生の清原和博と桑田真澄がいた。
プロでもやっていなかったワンポイント
4-3と取手二高の1点リードで迎えた9回裏。エースの石田文樹は、先頭打者に本塁打を許し同点とされると、動揺し、続く打者にデッドボールを与えてしまう。
ここで木内は、石田をライトに下げ、左横手投げの柏葉勝己をリリーフに送る。そして、PL学園が送りバントを失敗し、1死一塁とすると、4番清原和博を迎えたところで再び石田をマウンドに呼び寄せたのだ。
当時の主将で、のちに近鉄、阪神でプレーした吉田剛が思い起こす。
「今でいうワンポイントですよ。当時はプロでもそんなことやっていなかった。僕らもあのとき初めて見たんです。でも、石田がまたマウンドに戻ってきたとき、表情がガラリと変わってたんですよ」
石田は結局、清原を三振、5番・桑田は三塁ゴロに切って取り、木内の期待に見事こたえてみせた。
木内が「種明かし」をする。
「あんなに嬉しそうな顔をしてマウンドにあがったピッチャー、いなかったよ。ライトに戻って、冷静になったんだろうね。嬉しそうな顔をしてマウンドに上がったピッチャーは、みんないいピッチングをすんだよ」