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【追悼・木内幸男監督】「勝って不幸になる人間はいない」常識を超えた60年の指導法とは
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byShigeki Yamamoto
posted2020/11/25 06:01
県大会準決勝で藤代に破れ、球場を後にする木内。陽気な中にも寂しさが覗いた
絶不調の投手を抜擢するショック療法
2003年夏、自身3度目の全国制覇を達成したときも、似たような「ショック療法」を行ない、下降気味の投手を上昇気流に乗せた。
2回戦の智弁和歌山戦。エースの磯部洋輝の出来がいまいちだと判断するや否や、茨城大会では絶不調で1回3分の1しか登板機会を与えられなかった右横手投げの飯島秀明にスイッチ。すると、その飯島が全国屈指の強力打線を相手に見違えるような投球をし、5回をわずか1失点に抑え、6-3でチームを勝利に導いたのだ。
〈出た! 木内マジック〉
各紙とも、ここぞとばかりにそう書き立てた。
当時、捕手の大崎大二朗はこんなことを覚えている。
「甲子園出場が決まったあと、監督さんに呼ばれて『飯島を再生させないと甲子園では勝てないぞ。何とかしろ』って言われて。それを飯島に伝えたら、ものすごい喜んじゃって。干されたと思ってたんじゃないですか」
大崎と飯島は調子がよかったときの映像をチェックし、腕を下げアンダースロー気味にするなど技術的な修正を行なった。しかし木内が求めていたのは、むしろ「ものすごい喜んじゃって」という心の変化の方だった。
「嬉々としてマウンドに行ったからね。あんなに喜んでマウンドに行くやつを見たの、PLのときの石田以来だったな。だから、たいしたピッチャーじゃないのに、コーナーワークだけで抑えちゃうんだよ」
圧力を加え、反発力を待つのが常套手段
飯島は3回戦以降も毎試合登板し、そこからは1点も取られなかった。優勝を決めた瞬間、最後にマウンドにいたのも飯島だった。試合後、木内はそんな飯島を「神様、飯島様だな」と讃えた。
いったん圧力を加え、その反発力を待つ。それは木内の常套手段だった。
この夏の茨城大会でも、こんなシーンがあった。
準決勝、初回に1点を先制されて迎えた2回表。ノーアウト一塁の場面で、木内は6番・杉本智哉に強攻を命じた。たまたま記者席の後ろで観戦していた松林康徳にその意図を尋ねると、こう即答した。松林は、'03年夏のチームの主将で、現在は母校でコーチに就いている。
「さっき三塁の守備でミスしてますからね。こういうときは打たせるんですよ。自分で取り返せ! って」
木内の教え子に聞くと、必ず「監督さんはミスをしても、またチャンスをくれる」と話す。だが、それは、うがった見方をすれば、むしろ、木内はそんな選手をうまいこと利用しようとしているのだ。