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【追悼・木内幸男監督】「勝って不幸になる人間はいない」常識を超えた60年の指導法とは 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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photograph byShigeki Yamamoto

posted2020/11/25 06:01

【追悼・木内幸男監督】「勝って不幸になる人間はいない」常識を超えた60年の指導法とは<Number Web> photograph by Shigeki Yamamoto

県大会準決勝で藤代に破れ、球場を後にする木内。陽気な中にも寂しさが覗いた

「勝って不幸になる人間はいないのよ」

 ときは1951年。朝鮮戦争が勃発した翌年だった。

 '53年からは監督を任されるようになったものの、土浦一の監督職はあくまでボランティア。そのため’56年、薄給ではあるが賃金を出すと申し出た取手二高に移る。

 小菅は、現役時代、木内がよく「オレは6万円しかもらってねえんだ、ふざけんな!」と言って癇癪を起こした姿を記憶している。

「特別活動費とかなんとかいう名目だったらしい。本当に、それだけ。あとは奥さんが働いていたんです」

 報酬としてはあまりにも少ない。ただ、木内にとっての最大の強みは、その報酬を野球部の監督であることによって得ているという自負だった。

「私は職業監督でしたから、存在感を示すには結果を出すしかない。もちろん、人間づくりも必要なんですよ。でも、勝って不幸になる人間はいないのよ。それに、勝って喜びを知れば、人間は我慢ができるようになる。つまり、修養を積ませるには勝つチームにするのがいちばんカンタン。それに気づいちゃったのよ!」

 そのため、安っぽい道徳論を押しつけるようなこともなかった。

 木内は、取手二高時代の初期、校内の購買部の店員をしていた。その頃などは、素行の悪い部員に対し「万引きするならここでやれ」とたしなめ、外へランニングをしに行くという部員には「ホタルが飛ぶ(煙草を吸うの意)からやめとけ」とやんわり指導した。

「選手が悪さすっと、学校の先生は職業上、まずは処罰を考えんの。でもオレは、そのときはとりあえず大目に見て、次にさせない方法を考える。だから、どんな生徒でも受け入れられんのよ」

 木内独特の人心掌握術だった。また木内は、常々「俺は学校の先生じゃないから嘘はつかない」と話す。

「学校の先生はオブラートに包んで話すから。『僕は東大いけますか』って聞かれたら『努力すれば何とかなる』って言わなきゃなんない。でも俺は、どうがんばっても東大に行けない子には『おまえは絶対に無理だ』と言う。それと同じで、レギュラーになれないやつには、はっきり言うんだ。やめちゃいなさい、って」

 何とも痛烈なパラドクスである。

木内は常識を超えていたのだ

 常識外れ――。木内の人間性や野球観は、そうよく言われたものだ。だが、それは適当ではない。木内は常識を超えていたのだ。

 木内は公式戦のとき以外はユニフォームを着ない。

 襟付きシャツに、スラックスに、黒い革靴に、ゴルフキャップ。見慣れている者にとっては、むしろこっちの方が「ユニフォーム」だ。夏場は、これが、アロハシャツに、バミューダパンツに、下駄に、麦わら帽子にそれぞれ変わる。

 また木内は、取手二高の頃から、実に先進的な考えを持っていた。松沼雅之(元西武)が証言する。松沼は、4つ上の松沼博久(元西武)とともに、全国制覇を成し遂げる10年ほど前に木内の教えを受けていた。

「夏休みも1日3時間以上は練習をしなかった。暑いから、そんなに練習をやってもしょうがない、って。休憩も2回ぐらいあったし、氷水を飲んでもよかった。あの時代にしたら、相当、進んでますよ。秋の大会が終わったら、僕らは1月ぐらいまでは長髪でしたしね。坊主頭なんてみっともない、って」

 常総学院でも3年生だけは適度な長さなら許されていた。大崎が言う。

「五厘とかにすると怒られましたから。3年生は大学のセレクションとか受けなきゃいけないじゃないですか。そのときに五厘とかだと何か悪さしたみたいな感じになっちゃう、って」

 甲子園期間中、選手に私服を持っていかせるというのも常総学院ぐらいなものだろう。坂が話す。

「校名の入ったジャージだと、手を出せないのを知ってカツアゲとかされるかもしれないじゃないですか。だから外出時はいつも私服でしたね。毎日、ゲーセン行ったり、ラーメンを食いに行ったりしてました」

 プロ入り後、坂がもっとも苦しんだのは練習量の多さだったという。

「普通、みんなは高校時代がいちばん辛かったっていうけど、僕は逆。高校時代がいちばん楽でしたからね」

 木内は高校野球にありがちな理不尽な練習は一切、排除した。個人ノックとも、走り込みとも無縁で、「俺はノックやトレーニングでチームをつくらない」というのが信条だった。


 大崎がこんな言い方をしていた。

「楽して勝てる方法を教えてくれる、数少ない監督ですよね」

 木内を評する上で、これ以上の誉め言葉はない。

 監督の仕事。それは勝たせることである。木内はそのことに誰よりも忠実だった。

 木内はどういう人間かと聞かれたならば、おそらく正解はひとつしかない。それは、木内幸男である。

 大崎は帰り際、こっそりとこんな話を教えてくれた。

「監督の血液型って、AB型のRhマイナスかなんからしいですよ。輸血のとき、大変らしいです」

 RhマイナスAB型は、2000人に1人と言われている珍しい血液型である。本当か嘘かは別として、そんなことではまったく驚かなかった。

【夏の甲子園戦歴】
出場13回
優勝1回('03年)
準優勝1回('87年)
通算21勝12敗
茨城県代表

木内幸男(きうち ゆきお)

1931年7月12日、茨城県生まれ。甲子園には春7回、夏15回出場。優勝3回。土浦一高卒業後、母校で高校野球指導者の道へ。'56年、取手二高の監督に就任。'84年からは常総学院で指揮を執った。'11年、夏を最後に勇退を表明

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