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【追悼・木内幸男監督】「勝って不幸になる人間はいない」常識を超えた60年の指導法とは
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byShigeki Yamamoto
posted2020/11/25 06:01
県大会準決勝で藤代に破れ、球場を後にする木内。陽気な中にも寂しさが覗いた
ピリオドではなく、コンマのような終わり方だった。そう、まだ続きがあるような。
場所は、茨城県の「聖地」とでも呼ぶべき水戸市民球場。時計の針は、午前11時50分を回ったところだった。
9回表、2死一、三塁。代打・吉澤宗希の当たりは、ボテボテのショートゴロになった。まだ、信じられなかった。ショートが難なく捕球し、二塁へ送球する。それでもなお、頭がすぐには現実についていけない。
歓喜と、ざわめき。それらが同時に沸き起こる。
常総学院のスコアボードには、確かに、「0」が9つ並んでいた。
0-2。
2011年7月27日。晴天。木内幸男が率いる常総学院は、茨城大会の準決勝で敗れた。相手は第4シードの藤代だった。最後の夏だというのに、甲子園まで、あと2勝も、足りなかった。
「甲子園行ったら、パンダになっちゃうからナー。どっちでもよかったんだよ、ホントの話。ガハハハハハハ」
「80になっても野球やってるなんて」
試合後、木内は、取材陣と接するときはいつもそうであるように、あくまで陽気に振る舞った。ときどき聞き取れなくなるほどの強い茨城訛り。それさえ付け足せば何を言っても許されてしまいそうな豪快な笑い声。興奮してくると白い泡がたまってくる口の端。それらも、いつも通りだった。
「監督やめっからって、プレッシャー、かけすぎましたね。あんなに選手がかたくなったの、初めて見ました、ハイ。監督なんか、辞めても、死んでも、生きても、関係ないですよ。この歳ですからね。あらー、イヤだ」
木内は、1931年7月12日に茨城県土浦市に生まれた。そのおよそ2カ月後、柳条湖事件に端を発する満州事変が勃発している。もはや歴史の教科書の中の世界だ。
つまり毎年、夏の茨城大会を迎える頃、自分の新しい年齢に気づかされることが恒例行事になっていた。
木内がおどける。
「もう、80だぞ。ショックで寝込みたくなったよ。いや、そんなになったって気がつかないから、監督やってたんだよ。尋常じゃないもんな、80になっても野球やってるなんて。何ごとかって思うよ」