サハラマラソン挑戦記BACK NUMBER
ついにサハラ砂漠252kmを完走……。
地獄のマラソンを通じて分かったこと。
text by
松山貴史Takashi Matsuyama
photograph byTakashi Matsuyama
posted2011/05/13 06:00
ゴール後に完走メダルをかけてもらった。徒労感に襲われる
ついに……感動のゴールへ!?
一人で進むのは恐ろしいので、近くにいたスペイン人モレーノさんと話す。互いに最後尾を歩いていたので、面識はあった。出身地を尋ねると、何と、サハラマラソン出場の遠因の一つである以前付き合っていた彼女(スペイン留学中)が住んでいる街の名前が出てきた。凄くマイナーな街なのでまさか、この地名が出てくるとは思わなかった。これも何かの奇縁だろう(実はサハラマラソン後、彼女に会いに行ったのだが、本題から逸れるのでこれ以上は触れない。……ひとつだけ言えることは、人生そう上手くはいかないということだ)。
いよいよ、ゴールが見えてきた。これまでの辛い経験が走馬灯のように思い出される……かと思いきや、空腹感しか感じない。
肉が食べたい。
ゴール。
タイムは4:15:53、時速4.22km。トータルタイム69:37:51、時速3.6km。
わんわん泣きながらゴールをするイメージトレーニングを何度も行なってきたのだが、涙は一滴も流れなかった。なんという呆気ない幕切れなのだろう。大きな感動もなく、強い達成感も無かった。残ったのは説明し難い感情と、ひどい疲労感だけだった。
やはり初日から怪我をするという不本意なレースだったので満足いかなかったというのも理由にあるだろう。しかし逆にそれが良かったのかもしれない。サハラマラソン最大の懸念が、レース後、燃え尽き症候群になってしまうのではないか、という点にあったからだ。
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い」
J・S・ミルもこんなことを言っている。
次はタイムを狙おう。またこの灼熱の地に戻って来たい。そんなことを感じながらパトリック氏に完走者メダルを首にかけてもらい、バス停へ向かう。
バスに揺られてワルザザードのホテルに着く。この日は特に何もなく、翌日のレセプションまでフリー。10日ぶりのシャワーは最高だった。髪の毛がカチカチになって中々汚れがとれない。こんなに体を洗わなかったのは生まれて初めてだ。
夜は豪華ビュッフェが用意されており至れり尽くせりである。いきなりの原始生活から文明世界へと舞い戻り、夕食にはドルチェまで出る始末。やはりフランスの大会なので演出がニクい。
夜はベッドでぐっすり眠れると思いきや、あまり眠れない。夜風に当たろうと、ロビーに行くと日本の方々が飲んでいた。御一緒させていただき、ソファーでダラダラしていた時、ようやくサハラマラソンが終わったんだなと実感した。
朝方まで話は続き、AM4時就寝。
●4月10日(日) ゴール翌日。
この日は完走者Tシャツを貰い、市内観光後、最後のレセプションに出席のはずだったが、突然の時間変更に対応できず、まさかの日本人選手のほとんどがレセプション不参加となった。
後から聞いたが、例のドイツから参加のワタルさんが何と18位だったらしい。凄まじい。そしてサハラマラソン界を揺るがすニュースもあった。3年連続優勝のムハンマドさんが何と2位で、今年は別のモロッコ人選手が優勝したらしい。ムハンマド選手が優勝したと思って一緒に写真を撮ってもらったが残念なことになってしまった。
なんだかピリッとしない終わり方だったが、夜にスタッフとメディカルが中心の打ち上げみたいなパーティーに誘っていただけ、パトリック氏にもサインを貰えたので良しとしよう。アンジェラ・アキ似のエイミー先生の私服がピリッとしなかったのは非常に残念だったが。
●4月11日(月) ゴールから2日目。
いよいよモロッコともお別れし、愛しの花の都パリへ。
機内の横の席で、次はどこのレースに出ようかという恐ろしい話合いを耳にしたが、それ以外は特に何も無く無事パリに着く。「肉を食べたい」というのが日本人選手の総意だったので、みんなでパリにある「Matchan」という焼き肉屋へ行き打ち上げをする。
貨幣経済に不慣れになった我々はパリということを忘れて食べに食べ、飲みに飲んだため、16人で一人当たり80ユーロ(約9000円)という「叙々苑」クラスの値段になってしまったが、最後だからいいだろう。とても楽しかった。今回のメンバーで参加できて本当に良かったと思う。