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「甲子園のための売名なんやろ」の声も…30年前、阪神大震災後の“ある強豪野球部”のリアル「とてもじゃないけど甲子園なんて開催できない」 

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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photograph by(L)本人提供、(R)JIJI PRESS

posted2025/01/17 06:00

「甲子園のための売名なんやろ」の声も…30年前、阪神大震災後の“ある強豪野球部”のリアル「とてもじゃないけど甲子園なんて開催できない」<Number Web> photograph by (L)本人提供、(R)JIJI PRESS

1995年、春のセンバツの有力候補だった兵庫・神港学園の北原光広監督。阪神大震災で甚大な被害を受け、さまざまな葛藤を生んだ

 北原自身も数人の選手を連れて、共にボランティア活動に参加した。ひとつひとつ、今しかできない何かをこなしていかないと復興はできない。そう念じながら、避難所での細かい仕事を担った。

 その後、2月1日から授業は再開されたが、生徒が全員集まれたわけではなく、可能な範囲での再開だった。学校での活動が徐々に始まる中で、野球の練習の再開は現実的ではなかった。それでも北原に向けて尋ねてくるのは現状を取材しようとする報道陣だった。

「練習が出来るとか出来ないより、身の回りの安全や生きることを最優先にしていたので、あの頃は野球のことはあまり考えられなかったですね。それでも学校に行くとマスコミの方が毎日のように来られていました。全国放送のテレビ局も来られていて……」

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 ボランティア活動の合間に電話取材を受けることもあった。キー局の情報番組からも密着取材を受けた。テレビカメラに追われる中、「正直な話、そっとして欲しいとは思いました」と当時を振り返る。何より北原が危惧していたことがあった。

「ここまで野球部が注目されるとは思っていなかったんです。でも、野球部云々ではなく、被災地で生徒が懸命に生きているという姿を取材して欲しいというのはありました。野球部が目立つことだけはどうしても嫌でした」

センバツ開催は「無理です」

 第67回選抜高校野球大会の選考委員会は当初は2月1日だった。その直前に、実は当時日本高野連の事務局長を務めていた田名部和裕氏から北原宛に電話があったという。

「周囲はどんな状況なのか、(センバツ開催は)大丈夫そうなのかと尋ねられたんです。でも僕は“無理です”って言いました。現地の状況を知る人間は、とてもじゃないですけど甲子園なんて開催できないって思いましたよ。

 当時、近くの小学校の避難所で段ボールで仕切られた場所で布団を敷いて寝ている人や呆然としているお年寄りの方を近くでずっと見ていましたから、そんな状況でセンバツなんて……って。現地の方の悲壮感も相当なものでした。温かいものを食べることや、お風呂に入れないから何十キロも離れた銭湯に入りに行くとか、大変な思いをしている人がたくさんいる。そう思うとね……」

 そうして、その日もまた神戸へ向かい、ボランティア活動をしている時だった。小学校の体育館で作業をしていると、後ろから野太いこんな声を確かに聞いた。

「センバツに出たいための点数稼ぎや売名行為なんやろ」

<次回へつづく>

#2に続く
「高校野球だけ許されるのか?」今から30年前…阪神大震災後のセンバツ出場校“監督の葛藤”「『あんたたち、何してんの』と言われた気がして…」

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