甲子園の風BACK NUMBER
「甲子園のための売名なんやろ」の声も…30年前、阪神大震災後の“ある強豪野球部”のリアル「とてもじゃないけど甲子園なんて開催できない」
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by(L)本人提供、(R)JIJI PRESS
posted2025/01/17 06:00
1995年、春のセンバツの有力候補だった兵庫・神港学園の北原光広監督。阪神大震災で甚大な被害を受け、さまざまな葛藤を生んだ
無心のまま学校のある神戸市内へ車を走らせた。すると神戸に近づくにつれ凄惨な光景が目の前に飛び込んできた。
「途中で三宮の市街地を走っていたらビルが倒壊し、煙が出ているのもはっきりと見えました。彼の住んでいた家はぺっしゃんこでしたし、周りの家も倒壊、半壊していて。通常は神戸へは海側の道を走って1時間ほどかかるのですが、海側の道はすべて通行止めだったので、山側の三木方面へぐるっと回って新神戸トンネルを通って行ったので、いつもの倍以上は時間がかかっていたと思います」
いつも見慣れた景色が、ここまで変わってしまうのか。目につく惨状に思わず視線を落としそうになる中、阪神高速道路の高架が北側になぎ倒されているニュースの映像に言葉を失った。
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「これは神戸じゃないって思いました。地震以降、担任をしていた2年生のクラスの生徒の安否確認もしていましたが、あの頃は携帯電話やネットはなく、確認手段は電話のみでした。それでも固定電話も繋がらない地域があって、連絡が取れた生徒から“〇〇さんは知っているか?”とか“〇〇君は大丈夫か分かるか”とか聞いて、生徒の力も借りながら確認作業をしていました」
担任のクラスの生徒の安否確認が全て終わったのが震災から10日後の1月27日だった。だが、校内では一般生徒2人が亡くなったという悲報にも接した。
「無事でも家が全壊した生徒も多くいました。避難所生活を余儀なくされている人もたくさんいましたので、あの頃は“もう、野球なんかどうでもいい。野球ができる日は必ず来る”としか考えていなかったです」
周りの役に立てることはないか…部でボランティアに
現状を目の当たりにし、自分たちに今できることはないかと考えた。何か周りの役に立てることはないのか。考えた末にたどり着いたのがボランティア活動だった。
「小学生や中学生は親にまだ守られている世代ですけど、高校生になると親を守る、周りを守るという年代になってくる。高校生は行動力もパワーも気力もありますから、周りの人を守れるようになっていかないといけないとも思いました」
選手たちに北原が提案すると、選手たちも賛同してくれた。近隣の区役所に相談し、選手たちそれぞれが地元に近い地域に分散し、救援物資の仕分け、避難所設営のための畳運びなどの力仕事をはじめ、清掃活動などを手伝っていた。