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ドラ1で楽天入団→IT企業→広告代理店→テレビ局員に…北海道No.1進学校出身「ナゾのドラ1投手」の波乱万丈 心に残る「野村克也監督の言葉」とは?
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by(L)Sankei Shimbun、(R)Genki Taguchi
posted2025/01/12 11:02
北海道No.1進学校である札幌南高から楽天でのプロ野球選手生活を経て、現在はTBSで広告関係の仕事に携わる寺田龍平。プロ後の世界での紆余曲折を聞いた
理由のひとつとして、プロでの同期入団など自分の身近にいた選手を素直に応援できる気持ちにはなれなかった。だからこそ、寺田は社会人としての自立を第一としたのである。
「野球を辞めた時の年齢がちょうど大卒の新卒と同じだったので、彼らと同じ立場で勝負したかったというか、いち社会人として実力で勝負したかったというか。『元プロ』って色眼鏡で見られるのも嫌でしたけど」
セカンドキャリアのスタートは…IT企業!
セカンドキャリアのスタートはIT企業だった。自らの意志でこの業種を選んだのは「汎用性のあるスキルを身につけられる」と思ったからだという。
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寺田はこの会社で、「実力で勝負したい」という意志をはじめから打ち出す。
「どの部署を希望しますか?」
会社から聞かれると「一番厳しいところでやらせてください」と願い出た。野球選手だった自分は隠していながらも、アスリートの血は残したままだった。
「スタートは新卒で入ってくる人と一緒だから、野球に懸けていた情熱とか体力とかを仕事に向ければ、普通の人よりは頑張れるんじゃないかと思いました。あと、若いときに仕事の忙しさを経験しておけば、今後に生きるだろうなという考えもありました」
寺田が配属されたのは、霞が関の官公庁を担当する部署だった。
ネットワークのシステムが切り替わるタイミングで、機器やソフトの導入を進言するなどのコンサルタントが主な業務内容だった。自身が望んだようにその仕事はハードで、それこそ寝る間もないほど忙殺されたのだと、寺田は新社会人時代の自分を振り返る。
「役所ってとにかく文字の量が多くて、最初は読むだけでも目が回りました。あと、とにかく拘束時間が長かったです。先方に提出する提案書を作成する時期は1週間くらいあまり家に帰れないし、システムを管理する仕事だから絶対にミスできない。そこが一番大変だったかもしれないですね」