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「コース係が突然バツ印を…」箱根駅伝アンカーでまさか「踏切で足止め」大東文化大・田子康晴が振り返る“その時”「悔しかったのは踏切のことより…」 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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photograph byYasuharu Takko

posted2025/01/06 11:03

「コース係が突然バツ印を…」箱根駅伝アンカーでまさか「踏切で足止め」大東文化大・田子康晴が振り返る“その時”「悔しかったのは踏切のことより…」<Number Web> photograph by Yasuharu Takko

9人抜きの力走を見せた大東文化大4年時の田子康晴さん

「足止めされたことよりも、踏切を越えたあと、都心に入ったところで手袋を脱いでしまったこと。そこまでは暖かかったのでつい取ってしまったんですが、都心に入ったら高層ビルの陰になって日が当たらなくなり、ビル風も強く寒さで手足が動かなくなってしまった。レース後には何より、そのことを反省しました」

幼なじみの「松宮兄弟」

 秋田県鹿角市出身の田子さんが本格的に陸上を始めたのは秋田県立花輪高校(昨年3月に閉校)に入学してからだ。1学年上には、後に男子長距離トラック日本代表として北京五輪に出場した松宮隆行と実業団駅伝などで活躍した松宮祐行の双子の兄弟がおり、当時最強を誇った花輪高は全国高校駅伝に何度も出場した。

「松宮さんは小中高と同じで、小さな頃から一緒に遊んでいました。ただ僕は中学時代は野球やバスケットをしていたので、本格的に陸上を練習したのは高校からです。秋田では当時、記録会もほぼなかったので、大学に入った時は5000mの記録が同級生10人の中で10番目でした」

「8区」をかけたサバイバルに勝利

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 大東文化大入学と同じタイミングで同大陸上部に着任した只隈監督の熱血指導で、田子さんの潜在能力は一気に花開いていった。アップダウンの激しい大学周辺の丘陵地帯を走り込む伝統のトレーニングにより、スピードとスタミナも強化された。初めての箱根駅伝出場は2年生の時。レース直前になり8区の走者に抜擢された。

「当時は元旦に恒例の3000mトライアルがあって、そこで1位を取った選手が8区を走ることができたんです。2年生の時、そこで1番を取ったんですが、その時はもう箱根に出ることだけで精一杯という感じだったので案の定、当日は大ブレーキだったんです」

 記録は1時間7分30秒で区間12位。この年、大東文化大は6区で3年生の金子宣隆、10区で4年生の真名子圭がいずれも区間賞を取るなど、復路のランナーが健闘した。最終的には復路優勝の順天堂大にわずか25秒差の復路2位。だからこそ、余計に落ち込んだ。

「自分のブレーキがなければ復路優勝していたかもしれない。25秒差というのに、少し責任を感じていました」

“踏切事件”翌年には…

 雪辱を期して挑んだのが、3年時の箱根駅伝だった。記録もどんどん上がり、大事なアンカーを託された。ところが駆け出したその道に立ちはだかったのは、無情の踏切遮断機。それから1年後の4年時には、さらに悔しい思いを味わった。

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