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「コース係が突然バツ印を…」箱根駅伝アンカーでまさか「踏切で足止め」大東文化大・田子康晴が振り返る“その時”「悔しかったのは踏切のことより…」

posted2025/01/06 11:03

 
「コース係が突然バツ印を…」箱根駅伝アンカーでまさか「踏切で足止め」大東文化大・田子康晴が振り返る“その時”「悔しかったのは踏切のことより…」<Number Web> photograph by Yasuharu Takko

9人抜きの力走を見せた大東文化大4年時の田子康晴さん

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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Yasuharu Takko

 今年で101回を迎えた箱根駅伝の歴史には数々のドラマがあった。その一つが、2012年大会まで往路1区と復路10区に存在していた「蒲田第1踏切」でのハプニングだ。高架化に伴い現在は撤去された踏切で足止めを食ったランナーの1人が、2002年大会に大東文化大で10区を走った田子康晴さん(44歳)。現在は故郷の秋田県鹿角市で消防司令補として活躍する田子さんに、数奇な運命とその後の物語を聞いた。〈全2回の前編/後編を読む〉

 昨年、田子さんは“あの時”以来初めて、その現場を訪れた。長男の大学入試の付き添いのため秋田から上京し、京浜急行に乗車していた時のこと。京急蒲田駅を通過する車窓から、“あの時”と同じ景色の一片を見た。

「走行中で一瞬でしたから合っているかは分からないですけど、多分ここかもしれない、と。一緒にいた長男に『ここ、俺が止まったところかも』と言いました。長男は『ふーん』って感じでしたけどね」

踏切に阻まれた最後のランナー

 その「蒲田第1踏切」はかつて、京急蒲田駅から羽田空港方面へと分岐する京急空港線にあった。交通量の多い国道15号線(第1京浜)と交差するため「開かずの踏切」として知られた。箱根駅伝の往路1区と復路10区のコース上にあり、ランナーが立ち往生したり線路に足をとられるなどレースの“鬼門”となっていたが、周辺の高架化のため2012年10月に姿を消した。

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 田子さんは箱根駅伝で「蒲田第1踏切」に足止めを食らった最後のランナーである。2002年1月3日、大東文化大3年時に出場した第78回大会で最終10区を任され、鶴見中継所で5位で襷を受け取った。

「本番の2週間くらい前に風邪をひいてしまって、当日までの調整は結構大変でした。とにかくコンディションを整えて、ブレーキしないでゴールするということが一番。フラットコースは得意だったのですが、病み上がりだし23kmの距離をちゃんと走れるかという不安がありました」

“あと200m”の悲運

 不安に反して、走り出すとペースは快調に上がっていった。スタート時に1分00秒差あった4位・中央大との距離は徐々に縮まり、多摩川を越えて東京都内に入るとその姿が射程内に入った。蒲田の踏切手前でついにその差は200mまで迫っていた。

「どんどん背中が大きく見えてきました。いけるかもしれない。とにかく追いついて、あとは最後までキープして……と考えていました。その時、道路上に立っていたコース係の方が腕で大きく“バッテン”をしたんです。その後ろで、踏切の遮断機が降りているのが見えました」

【次ページ】 「まさか私が…」コースを逆に戻って

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