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ぶら野球BACK NUMBER
原辰徳27歳が婚約で、なぜか中日・落合博満に電話殺到「原に“おめでとう”と言いたい」…ウワサされた「落合ダイエー入り」FA移籍前夜の騒ぎ
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2024/11/22 11:06
1987~93年シーズンまで中日に在籍。その間にリーグ優勝1回。本塁打王2回、打点王2回など多くの打撃タイトルを獲得
にわかにその去就が注目され、夏場にはサンケイスポーツが「落合放出」と一面で打ち、東京スポーツは「落合ダイエー入り」と書き立てた。
この頃、周囲から見たら、背番号6は名古屋でもう証明するものはないという状況だったのも事実だ。公約通り中日をリーグ優勝に導き、4度目の三冠王こそならなかったが、「球団はキミのタイトルを買っている」と契約更改で求められると、多くの打撃タイトルを獲得してみせた。自分をトレードで連れてきた星野仙一監督も91年限りで辞任している。これまで、常に“三冠王”を公言してきたが、39歳を目前にした今、現実的な目標としてはそれも難しくなりつつあった。これから、落合は何を追い求めて野球をするのだろうか。
ただの石ころから、光り輝くダイヤモンドになってやるさ―とバット一本で頂点に上り詰めたが、実際にてっぺんに辿り着いたら、その旅は終わってしまう。すでにプロ入り時に夢見た、大金も名声も手に入れた。来年、男は40になる。「週刊ベースボール」1992年9月21日号では、こんな特集記事が組まれている。
「落合博満(中日)は、どこへ行く!?」と。
その直後だ。1992年秋、球界に激震が走る―。オレ流が死にたいくらいに憧れた男、長嶋茂雄が、12年ぶりに巨人監督に電撃復帰したのである。
「中日を離れるのがイヤだったんだ」
「中日には本当によくしてもらっていたからね。年俸が1億円、2億円、3億円と突破していったのも、みんな中日にきてからでしょう。選手の気心も知れているし、野球をやる環境としては中日がベストだった。中日には愛着があったんだ。名古屋という街も住みやすかったし。あのまま中日に残るのが一番いいことだろうと思っていた。本当は中日を離れるのが嫌だったんだ」(激闘と挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)