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「ドラフト2位と4位がまさかの指名拒否でも…」ドラ3・落合博満「カネは問題じゃない」“25歳のルーキー”はこうしてロッテに入団した 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2024/10/09 11:01

「ドラフト2位と4位がまさかの指名拒否でも…」ドラ3・落合博満「カネは問題じゃない」“25歳のルーキー”はこうしてロッテに入団した<Number Web> photograph by KYODO

1978年ドラフト3位指名、25歳でロッテに入団した落合博満

 そして、江川卓の“空白の1日”で揺れる1978年ドラフト会議で、ロッテオリオンズから3位指名を受けるのだ。前監督、金田正一が「狭い球場にあった、本塁打を打てる選手をとれ」と厳命し、リストアップされたのが社会人屈指の飛ばし屋・落合である。前年は阪神から誘いがあったが、守備と肩に不安のある落合の評価はどの球団もそこまで高くなく、実際にロッテも全日本の四番で強打の外野手、菊地恭一(東芝)を2位指名している。しかし、スカウト部長の三宅宅三は、東芝府中の関係者に「三宅さん、(菊地より)落合の方が上ですよ」とハッキリ言われたという。ちなみにこの年のロッテは、この菊地と4位の武藤信二(我孫子高)が入団拒否。指名4人中2人が入団拒否という不人気ぶりである。まだ“人気のセ、実力のパ”の価値観が根強かったが、すでに24歳の落合は、プロだったらどこでも行くつもりだった。「契約金は問題じゃない。私はただプロでやりたいだけです」と宣言して球団側を驚かせたほどだ。

“1本のホームラン”が落合を変えた

 70年代、ロッテの三塁と言えば“ミスター・ロッテ”こと、有藤道世が君臨していた。当時は落合自身が「有藤さんはランクが違う」と認める高すぎる壁だ。出場機会を増やすため慣れない二塁守備に挑戦したプロ1年目。イースタンでは打率・324、8本塁打、40打点の好成績を残し、一軍ではデビュー3試合目にプロ初アーチを放つも、わずか36試合の出場で打率・234、2本塁打に終わる。逆襲を誓った2年目の1980年は、先輩キャッチャーの土肥健二のスイングを観察し、手首の使い方を自分の打撃フォームに取り入れた。打球に鋭さが増し、手応えを掴みかけた矢先、春のオープン戦で守備中に味方野手と交錯してしまい、左ヒザの打撲とねんざで戦線離脱。それでも、ベッドの上で、ここで負けてたまるかと鉄アレイを握って筋力トレーニングに励む。

 ようやく満足にバットを振れるようになったのは5月上旬だったが、1980年5月14日、ターニングポイントとなる試合があった。イースタンの大洋戦でベテランの佐藤道郎と対峙したのである。南海時代のプロ1年目に18勝を挙げ、新人王にも輝いた右腕はすでに現役晩年だったが、ボールには鋭いキレがあった。落合は本当の自分の力を試したいといつも以上に集中して打席に入り、会心のホームランを放つ。

ゲーム途中、姉に電話「今日打ったよ」

「モヤモヤした気分は、この一発で完全に晴れた。そして、佐藤さんのような投手と毎試合対戦できる一軍へ早く上がりたくなった。この時から、私は一軍へ上がるためなら何でもしようという決意で練習や試合に精を出した。明確なモチベーションを持った私は、すぐに一軍の首脳陣に注目される結果を残した」(野球人/落合博満/ベースボール・マガジン社)

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