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ぶら野球BACK NUMBER
「所持金はわずか5円だった」18歳落合博満、“失敗続き”の日々「練習はサボってばかり」高校野球のシゴキを嫌った男が25歳でプロになるまで
posted2024/10/09 11:00
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売され、即重版と売れ行き好調だ。その書籍のなかから、“落合博満前夜”を紹介する。「ポケットに5円しかなかった」18歳の青年はいかにしてプロ野球選手になったのか。【全2回の前編/後編も公開中】
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落合博満の年俸は360万円だった
「2年目を迎え、ひとつ夢もデッカク持とうじゃないか――なんて、20ホーマーで、打率2割8分以上なんて目標をかかげてみました。試合は65以上出場。ファームでくすぶってるのは、もうご免ですから」(週刊ベースボール1980年1月21日号)
プロ2年目を迎える年俸360万円の男は、思い切ってそんな新年の誓いを立てた。ルーキーイヤーの前年は、36試合で打率.234、2本塁打という屈辱的な成績に終わった。二軍にはプロのユニフォームを着ているだけで満足しているような連中もいて、ここに長くいたら、いつか自分もその雰囲気に同化してしまうのではないかという恐怖もあった。オレはこのまま終わるわけにはいかない――焦りと、希望の狭間でもがくのは、まだ何者でもなかった、26歳の落合博満である。
ロッテの山内一弘監督は「打率.250は残せる素質はある。落合が八番あたりを打てば打線がグッと厚みを増す」と控え目な期待を口にする一方で、当初はあんなアッパースイングじゃプロでは通用しないと酷評していた。1年目はイースタンワーストタイの6打席連続三振、相手ベンチからは東芝府中出身の背番号6に対して、“東芝の扇風機”なんて野次も飛ぶ。25歳でプロ入りしたオールドルーキーにはとにかく時間がない。10代の若手選手たちのように、失敗も成長の糧だと許容される立場ではなかった。落合は周囲の雑音にも、「どうせ打てないなら、自分の好きなようにやるさ」と開き直ってバットを振った。
「練習はサボってばかり…」秋田工高時代の伝説
秋田の怪童、落合博満――。中学時代から剛腕の四番エースとして知られ、秋田工に入学してすぐ、新入生にフリーバッティングで打たせると、ひとりだけすべてバットの芯でとらえ、センターオーバーのホームランも放ってみせた。別格の才能を見せつけたが、1年時に肩と腰を痛め投手から外野にコンバート。練習どころか学校も休んで、弁当片手に映画館通いの日々を送るも、力は図抜けていたため試合になれば呼ばれて四番を打った。それがときに先輩や同級生の妬みを買ってしまう。理不尽に殴る上級生に嫌気がさして8回退部届けを出したという、当時の落合の様子を野球部の後輩はこう語っている。