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「俺たち無事だと伝えて欲しい」大震災の朝もトラ番は甲子園に向かった…草分け記者が見た90年代阪神の熱狂「20歳の新庄剛志」「あの退団騒動」 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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photograph bySANKEI SHIMBUN

posted2024/09/27 11:08

「俺たち無事だと伝えて欲しい」大震災の朝もトラ番は甲子園に向かった…草分け記者が見た90年代阪神の熱狂「20歳の新庄剛志」「あの退団騒動」<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

1994年の阪神タイガース。サヨナラ満塁本塁打を放った新庄剛志がチームメートの祝福を受ける

「俺たち無事だと伝えて欲しい」

 1995年1月17日。その日堀記者は、和田豊と久慈照嘉、仲田幸司の合同自主トレを取材するため滋賀に向かう予定だった。朝5時46分、大阪市内の自宅でドカンという大きな揺れに遭遇した。「阪神・淡路大震災」。死者6434名という甚大な被害をもたらした、当時戦後最大の大震災だった。しかしまだインターネットも普及していなかった時代で、渦中の被災者は発生当初、どれだけの規模の災害であるか把握できていなかった。

「車でも電車でもこれは滋賀にはいけない、と。電話も通じずとにかく約束していた取材に行けないことを伝えなければと公衆電話に走りました。滋賀のホテルに電話をかけて取り次いでもらうと、電話口で和田さんは大慌てでした。西宮に残してきた家族と連絡が取れない。『嫁が大丈夫なのか、ものすごく心配だから、まどかちゃん、もし連絡が取れたら俺たち無事だと伝えて欲しい。頼むわ』と。会社からもとにかく甲子園に行け、と言われたので急いで向かったんです」

 当然、交通手段などない。たまたま通りがかったタクシーを捕まえたが「お客さん、帰れなくなりますよ」と一度は断られ、「とにかく行ってください」と説得して甲子園球場に向かった。

震災当日も甲子園に駆けつけたトラ番

「1月はオフシーズンですから甲子園で何があるわけでもないんです。それぞれの自主トレ先に出ているから選手もいない。それでも甲子園にある球団事務所になんとかたどり着くと驚くことに、スポーツ紙のトラ番は全紙駆けつけていました。デイリースポーツは2人も記者がきていた。古いプレスルームで余震に怯えながら取材しました。

 まず和田家に電話をしたら奥様ももう泣き声になっていて、『和田さんも滋賀で心配されているんですけど帰る手段がない。頑張ってくれと言われていました』と伝えました。電話を切った後、球場を見に行ったら、アルプススタンドはガタガタだし、グラウンドは液状化で泥水が噴き出していて……。これはえらいことや、(3月の)センバツなんて絶対できへんな、と呆然としましたね」

 悲惨なその光景を見つめていたその時、一人の男性が甲子園球場に駆け込んできた。(続く)

堀まどか(ほりまどか)

 1988年に大阪日刊スポーツ初の女性記者として入社し、プロ野球の南海、近鉄、阪神担当を経て95年からアマチュア野球担当。のべ15年近く高校野球などを取材した。現在は編集委員としてプロ・アマ問わず野球の取材に関わる。有料サイト「日刊スポーツ・プレミアム」(https://www.nikkansports.com/premium/)で長編記事を連載中

#3に続く
「最後のバッターがうちの子でよかった」甲子園を見続けてきた伝説の女性記者が今も心に刻む“ある金言”…次の100年へ「高校野球は大きな岐路に」

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