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スポーツ紙界の「虎に翼」伝説の女性記者が振り返る“昭和のプロ野球”の輝き「何をどうやったら…」窮地を救った“コワモテ選手”の一言
posted2024/09/27 11:07
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
SANKEI SHIMBUN
堀記者が日刊スポーツで働き始めたのは1987年のこと。日本経済がバブル期の入口に立っていた華々しい時代。関西学院大学の女子大生が、就職先としてスポーツ新聞を選んだのは一体なぜなのだろうか。
「スポーツをしていたんでしょ? とよく聞かれるんですが、運動は全くダメ。野球を見るのは好きでしたけれど、ものすごく詳しかったわけでも熱心に球場に通っていたわけでもないんです。今思えばよくこんな仕事をやれたな、と思います」
「スポーツ新聞特集」に…
きっかけは、関学大3年時の1985年に観戦した甲子園ボウル。母校と明治大学との決勝戦で、残り32秒で関学大が48−46と逆転して日本一になった試合をスタンドで見ていた。残り6秒で明大にゴール前3ヤード地点まで迫られたが、フィールドゴールが外れてリードを守り切り試合終了というドラマチックな幕切れだった。
「関学は同期の子が軸になったチームでした。劇的な試合を見ていて、こういう場面を伝えることを仕事にできたらいいな、と思うようになったんです。それともう一つ、Numberがスポーツ新聞を特集をした号を見て……」
1986年5月20日に発行された「Number147号」の特集テーマは「スポーツ報道大研究」。そこには、日刊スポーツの阪神番記者と、巨人番記者の取材合戦を綴ったドキュメントが綴られている。書き出しはこうだ。
それはいつも熱くて、ちょっぴり複雑な吐息から始まる。
なんてったって「伝統の一戦」。それがどうした……チクショウめ! 俺たちゃやたら忙しいだけじゃないのか。
スポーツ紙の現場は、まさにこんな荒々しい世界。このページのメーンカットに使われている甲子園球場の記者席に映る記者たちは、全員が男性だ。
面接で最初に聞かれた質問
「コラムには、巨人担当キャップは出張の時にパンツを何泊分持ってくる、とか、記者の生活や人間模様まで細かく書き込まれていて、面白い世界やな、と思ったんです。スポーツ紙を志望するなんて異質な存在だったとは思いますけど、実際のところ当時の私には『女性の道を切り拓くんだ』という大志があったわけではなく、入れるかな、ぐらいのイメージだけで飛び込んだ世界でした」