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スポーツ紙界の「虎に翼」伝説の女性記者が振り返る“昭和のプロ野球”の輝き「何をどうやったら…」窮地を救った“コワモテ選手”の一言 

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佐藤春佳

佐藤春佳Haruka Sato

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photograph bySANKEI SHIMBUN

posted2024/09/27 11:07

スポーツ紙界の「虎に翼」伝説の女性記者が振り返る“昭和のプロ野球”の輝き「何をどうやったら…」窮地を救った“コワモテ選手”の一言<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

身長170cmと小柄な体にも関わらず通算567本塁打を放った門田博光

 男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年。スポーツ紙も少しずつ女性記者を採用するようにはなっていたが、芸能や社会面を担当することが多く“男の世界”であるプロ野球担当にはほぼ配置されていなかった。大阪日刊スポーツが採用した女性記者第1号だった堀記者は、試用期間を経て88年に正式入社した。

「今でもよく覚えているんですが、面接で最初に聞かれたのは、『一人でお昼ご飯食べれるんか、君は?』って。決して悪気があったわけではなく、そういう時代でした。こういう世界で女の子が大丈夫なんか、と。東京の日刊スポーツには女性記者がいたのですが、大阪では第1号だったので、何か違うことをやらせてみようということで、プロ野球担当になりました」

最初の担当は「南海ホークス」

 記者人生の第一歩は、南海ホークス担当。当時のパ・リーグは「トレンディーエース」と言われた日本ハムの西崎幸広や、近鉄の阿波野秀幸らが新風を巻き起こしてはいたが、それでもまだ、野武士軍団の雰囲気漂う世界だった。特に杉浦忠監督率いる南海の主力は藤本修二や門田博光、佐々木誠といった骨太な面々。その現場に紅一点の存在として飛び込んだ。

「いわゆる昭和のプロ野球選手がゴロゴロいて、見た目はおっかないしね(笑)。現場では気を遣ってくださる方が半分くらい。あとの半分は口に出しては言わないけれど、女の子の入ってくるところじゃないで、っていう空気感を感じていました。ホークスの方々も『うちが弱いから女の子が担当か』みたいに受け取る方もいました」

 最初は取材の方法にも戸惑った。今でこそプロ野球の取材現場は、広報担当者が取材の場をセッティングしているが、当時はその境目がほとんどない状態。朝から晩までチームに帯同する中で顔を覚えてもらい、自分から話を聞きにいかなければ原稿は作れない。

「最初は門田さんの名前ぐらいしか知らなかったですし、もはや何をどうやったらいいのか分からない、という状態でした。選手たちは他のおじさん記者とは談笑していても、私なんかは子ども扱い。話すきっかけも、タイミングも全く分からず、ストレスフルな毎日でした」

新米記者を救った“コワモテ選手”

 そんな状況を見かねて、声をかけてくれた選手がいた。抜群の勝負強さを誇るスラッガーのカズ山本こと山本和範。ドラキュラに顔が似ていることから「ドラ」の愛称も持つコワモテがある時、「いつ聞いてもいいねんで」と堀記者の背中を押した。

「『いつ何を質問してもいいねん。声かけて答えるのは俺らの仕事やから、プロやから』と言ってくれました。それにすごく救われたというかね。記者として、あれが自分のスタートかな、と思います」

 記者1年目で飛び込んだ1988年のプロ野球界は、球史に刻まれる激動の1年でもあった。9月に担当する南海がダイエーへの球団譲渡を発表。10月にはロッテ・オリオンズ対近鉄バファローズの伝説のダブルヘッダー、「10.19」があり、さらに同日、阪急ブレーブスがオリックスに身売りするという衝撃が球界を駆け抜けた。

「大阪日刊はその頃パ・リーグの取材に力を入れていて、各球団2人ずつ担当記者がいましたが、その中で私は何のキャリアもないので、ひたすら門田邸の前に立ってろ、と言われていました。南海のスター選手だった門田さんは(身売り先の)博多には行かない、と言い出して、その去就が大きなニュースになっていたんです。門田さんの家に行ってはずっと待ち続け、一言もらうような毎日。先輩記者の姿を見ながら、ニュースってこうやって取材するのか、と学ぶ日々でした」

【次ページ】 仰木監督と番記者の“緊迫感”

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