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スポーツ紙界の「虎に翼」伝説の女性記者が振り返る“昭和のプロ野球”の輝き「何をどうやったら…」窮地を救った“コワモテ選手”の一言
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph bySANKEI SHIMBUN
posted2024/09/27 11:07
身長170cmと小柄な体にも関わらず通算567本塁打を放った門田博光
「怖かった」若き仰木監督の眼光
88年オフから4年間担当した近鉄バファローズでは、就任2年目だった仰木彬監督の才気溢れる姿を目の当たりにした。後のオリックス監督時代の印象から、柔和でサービス精神に富んだ印象が一般的だが、52歳で初めて指揮を執った当初は眼光鋭く、常に緊張感を漂わせていた。
「怖かったです。とにかく厳しい方でした。近鉄時代の仰木監督はまだ実績もなく、ここからのし上がっていくという野望があったと思うんです。だから勝負に対しての執念も凄くて、負けた試合の後なんかは、番記者もどう質問を切り出せばいいのか……という雰囲気でした。
時には記者との間で喧嘩腰になることもありましたし、下手なことを聞いたら怒鳴られる。監督を取材するときは常に緊張して、どうやったら上手く答えを引き出せるのか必死に考えました。でも今振り返るとあの時間は本当に勉強になったし、女性記者だからといって手加減するようなこともなくて、ある意味男性の記者と同等に見てくれてたんかな、と思うんです」
助けになってくれたのは、仰木監督を右腕として支えた中西太ヘッドコーチや、主力打者だった新井宏昌の存在だった。
ギラギラしたパ・リーグの熱気
「中西さんは、若い担当記者によく『分からんことがあったら、まあまずワシに聞け』と言われていました。『仰木は頭の中で色々なことを考えていて、それが全て言語にならないからな。分からなかったら俺が説明するから』と。監督とメディアとの間だけでなく、監督と選手の間でも仲介者の役割をされていましたね。新井さんは本当に玄人というか、野球理論を持った方なんですけど、それをいつも丁寧に説明してくださった。お世話になった方は多いです」
仰木監督は近鉄の指揮を執った5年間全てチームをAクラスに導き、94年からはオリックスの監督に就任。イチローを見いだし、阪神・淡路大震災が起きた1995年には「がんばろうKOBE」を合言葉に初優勝を果たした。
「あの時代のパ・リーグは、ここからセ・リーグに対抗していくぞ、というギラギラした空気に満ちていました。仰木さんはその旗振り役だった。監督としての駆け出しの時期を近くで取材できたのは幸運なことでした。2004年にオリックスの監督に復帰してから取材させていただいた時はすっかり丸くなっていて、とても寂しく感じましたね。まだまだ、怖い方でいて欲しかった……」
仰木氏は現場復帰から2年目の05年シーズン限りで監督を退任。肺がんの再発を隠し、病魔と戦ってきたが力尽き、同年12月にこの世を去った。(つづく)
堀まどか(ほりまどか)
1988年に大阪日刊スポーツ初の女性記者として入社し、プロ野球の南海、近鉄、阪神担当を経て95年からアマチュア野球担当。のべ15年近く高校野球などを取材した。現在は編集委員としてプロ・アマ問わず野球の取材に関わる。有料サイト「日刊スポーツ・プレミアム」(https://www.nikkansports.com/premium/)で長編記事を連載中