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「自分の無能さが表現された3年間」栗山英樹が明かす日本ハム監督時代の挫折「何をどうあがいてもチームは動かなかった。野球の神様が…」《NumberTV》
posted2024/09/26 11:04
text by
酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph by
Tatsuo Harada
【初出:発売中のNumber1105号[挫折地点を語る]栗山英樹「己を試された試練の3年間」】
目先の勝利より常勝チームを
2023年のワールド・ベースボール・ クラシック(WBC)で侍ジャパンを世界一に導いた栗山英樹監督(当時)は大会前、選手たち全員に直筆の手紙を送っている。
「一人ひとりに、日本代表なんだという自覚を持ってもらうためです」
ここまでは有名な話である。
だが、栗山が筆を取った心の奥底には、実はある思いがくすぶっていた。
トラウマを抱えていたのだ。
栗山は日本ハムの監督として'12年から'21年までの10年間、チームを率いた。そのなかで、指導者として糧となった、大きな壁にぶつかったシーズンがあるのだという。
就任1年目に優勝したが、翌'13年は最下位に転落した。監督在任中、たった一度の6位は天から地への失墜であり、キャリアのなかで最大の挫折に映る。
だが、ルーキーの大谷翔平(現ドジャース)が二刀流に挑戦したこのシーズンを振り返る時、栗山はどこか達観していた。
「僕は毎年、優勝しようと思っていました。 一方で、あの年は翔平を育てるための1年間だと考えていました。この選手が育てば何年も日本一になれると思っていましたし、目先の勝利よりも常勝チームをつくるためにどうしても必要な時間だったんです。そういう大義がある時は我慢できます。大義があればブレません」
自分の無能さが表現された3年間
それならば、いったい、いつが挫折なのだろう。1度の日本一と2度のリーグ優勝を果たし、Aクラスは5度。球団の歴代最多勝利監督に際立った蹉跌は見当たらないが、栗山には忸怩たる思いがあった。
「僕にとって一番大きなシーズンは'19、'20、'21年の、最後の3年間です。'19年は8月に5勝しかできなくて、勝敗の『〇╳』をつけた、当時のスケジュール表をいまだに持っています。自分の無能さが表現された3年間は、監督としての挫折でした」
'19年は8月に5勝20敗1分の深手を負い、前年の3位から5位に沈んだ。翌年以降も浮上できないまま、3年連続5位。'21年10月に志半ばでユニフォームを脱いだ。
「何を、どうあがいてもチームは動かなかった。あの頃はずっと『札幌ドームの天井』 を見つめていました。野球の神様が上にいて、お前がどんなサインを出しても絶対に勝たせないと言われている感覚でした」
栗山は退任した後も自問自答した。
自分に、何が足りなかったのか。
<後編に続く>
【番組を見る】NumberTV「#5 栗山英樹 監督退任、味わい続けた敗北。」はこちらからご覧いただけます。