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野球クロスロードBACK NUMBER
大谷翔平の甲子園を阻止…あの“ポール際の一発”を放った「盛岡大附の4番」が野球を続けるワケ「大谷選手が…みたいなのはないですよ」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by(L)Sankei Shimbun、(R)JIJI PRESS
posted2024/07/09 11:04
大谷翔平の最後の夏を打ち砕いたホームランを放った二橋大地(左)は今季から三菱重工Westに移籍し、いまでも野球を続けている
二橋の言う“あの試合”とは、今から12年前の2012年まで遡る。
夏の岩手は「大谷一色」に染まっていた。投打で異彩を放つ「プロ注目」の花巻東・大谷の評価は日に日に高まり、準決勝で当時の高校生最速となる160キロをマークしたことで最高潮に達していた。
その大谷を打ち砕いたのが決勝戦の相手である盛岡大附だった。なかでも、事実上、試合を決めることとなった二橋のホームランは、レフトポールの頭上をかすめるような際どい打球であり、当時は「あれはファウルだ」と判定を不服とする声も多かった。それによって、盛岡大附はヒールのような扱いを受けてしまっていた。
二橋につきまとった「大谷翔平」という存在
この試合以降、二橋には「大谷」がつきまとった。
正確に言えば、世間が二橋から大谷を切り離すことを許さなかったのである。
花巻東から日本ハムに入団した大谷は、1年目から二刀流として存在感を示していた。2年目の14年に2桁勝利と2桁ホームランの偉業を成し遂げ、16年にはパ・リーグMVPに輝き日本一の立役者となった。
東日本国際大に進んだ二橋も1年秋のリーグ戦からレギュラーとなると、4年春にはMVP。主力として5度のリーグ優勝に貢献し、三菱重工Eastへとキャリアアップした。
プロ入りを目指していた二橋が夢に一区切りをつけたのは、大谷がメジャーリーグに挑戦する18年。社会人2年目のことだった。
「1年目はオープン戦を含めても7打席くらいしか立てなくて、次の年に『今年ダメなら終わりだぞ』とチームから言われてたんです。それで、2年目は本当に必死に食らいついて、自分でも『これ以上は打てないだろう』というくらい打てたというか。それでもプロになれなかった。当時、野手は特に大卒社会人の“2年目の壁”みたいなものがあって、そこでプロ入りできなければ厳しいって風潮があったんですね。だから、そこで気持ちを切り替えて『チームのために頑張ろう』と」
社会人野球に骨を埋めると決めてからも、大谷関連の取材は続いた。
「誰が見たってスーパースターだから」
そう割り切っていても、取材を受けるとまるで自分が大谷の引き立て役のように扱われる。「またか」と辟易しているとはいえ、二橋がインタビューを断ることはなかった。