近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
「今日のキャッシュより、明日の夢です」年俸1億円超え→任意引退を選んだ野茂英雄26歳のメジャー挑戦 近鉄同僚投手は「絶対やってくれると思っていた」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byGetty Images
posted2024/06/02 11:01
1995年2月13日、ドジャース入団の会見を行った野茂英雄。団野村の当時の発言と近鉄の同僚投手たちの証言で1995年1月当時を振り返る
「契約は難しいことではない。28球団(=当時のメジャー球団数)が対象。どこが一番いいのか。将来を決める重要なこと。その辺の買い物に行くんじゃありません。積極的にアタックしていきます。彼のキャリアは長い。今日のキャッシュより、明日の夢です」
「野球界発展のため。それを狙っています。夢を売る商売ですから、発展という言葉をテーマにしてやっていきたい」
野茂、メジャー全球団OK、どこだって行く――。
そうやって書きながら、どこかぼんやりと、ふわっとした感じが否めなかった。とにかく日本人選手がメジャーに行くという、その「前例」がないのだ。
メジャーへの「行き方」がなかった時代
日本人初のメジャーリーガーとなった「マッシー」こと、村上雅則のケースは、南海(現ソフトバンク)からの野球留学の形で渡米、マイナーでの実績が認められ、サンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たしている。
1964年(昭和39年)からの2シーズンでのプレーだったが、この際も村上が日米いずれの球団に帰属しているのか、という問題が発生している。1965年は米国でプレーした後、66年には日本へ戻るという曖昧な妥結は、メジャー移籍に関する明確なルールの不在による、村上本人の意志と関係ないところで事が動いていた証左でもある。
日米選手契約協定が両国のコミッショナー間で調印されたのは1967年。ただ、この協定は、日本球団が米国側選手を獲得することを前提として作られていたものだった。日本の所属球団がメジャー全球団に選手名を通知、交渉権の入札を行い、落札した球団との交渉がまとまればメジャー移籍が可能となり、落札球団からは日本の球団に落札額が支払われる「ポスティング・システム」が発効したのも1998年のことだ。
だから、野茂が「メジャー挑戦」を打ち出す前には、日本人選手がメジャーに行くということが、そもそも想定されていなかったというわけだ。だから、今後はどんな手順で事が進むのか、どのように交渉して、どう球団が決まっていくのかも、それまでの実例が一切ないから、取材しながらも、次の展開が全く読めなかったのだ。
野茂不在の勝ち頭エースの証言
その思いは、当時の近鉄のチームメートたちも同じだった。