近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄は「もう日本に帰れない」「危険な賭けだ」メジャー挑戦表明に日本球界から悲観論が噴出…ドジャース・野茂フィーバー前史
posted2024/06/02 11:00
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Masato Daito
FAでメジャー移籍なら30歳を超えてしまう
今思えば、日本の野球界に新たな時代の到来を告げる“歴史の転換点”だった。
1995年1月9日、近鉄との契約更改交渉が最終的に決裂した野茂英雄は、自らの夢でもあった「メジャー挑戦」を正式表明した。
「プロに入ったときから、大リーグでやってみたい夢を持っていました。FA権が取れるかどうかも分からないし、取れたとしても30歳を超えてしまう。自分の中で今、挑戦したい、そういう気持ちになりました。最初は複数年契約、代理人交渉を認めてもらおうという気持ちでしたが、時間を考えて、大リーグに行こう、挑戦しようと。球団からは『残ってほしい』とは言われましたが『意志が固いのなら』と、送り出してくれるということです」
円満退団を強調し、近鉄への感謝も述べた野茂だったが、互いの主張が真っ向から対立した交渉の内容は、実にシビアなものだったという。
FA権取得まで、当時の野茂には一軍登録9年、通算1305日が必要だった。右肩痛でシーズン後半を棒に振った1994年がプロ5年目の26歳だったから、FA権取得まで残り4年半、つまり5シーズンが最低でも必要となり、その時なら31歳。故障による戦線離脱の期間が長引きでもすれば、さらにずれ込むことが容易に予測もできる。
日本の野球協約が“適用外”のアメリカ
だから野茂は、リスクヘッジの身分保障として「複数年契約」を要求した。しかし、球団側はあくまで「野球協約にはない制度」と拒否。着地点が全く見えない、平行線の続いた都合4度の交渉の中で、野茂は球団側から出された「任意引退同意書」にサインしたという。
それは交渉決裂、退団という最悪の流れになっても、野茂の意志だけでは日本の他球団には行けないという“縛り”を球団側がかける意味合いがあった。任意引退の場合、国内では近鉄の容認がなければ他球団への移籍はできない。しかし、米国に渡れば「unconditional release」の扱い、つまりはフリーエージェント(FA)の立場で、米国全球団を対象とした直接交渉、移籍に関しても完全に自由になる。
スッキリした形で行ける。よかったです
それが野茂にとって、夢の世界へ旅立つために必要な“パスポート”となった。