近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
「今日のキャッシュより、明日の夢です」年俸1億円超え→任意引退を選んだ野茂英雄26歳のメジャー挑戦 近鉄同僚投手は「絶対やってくれると思っていた」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byGetty Images
posted2024/06/02 11:01
1995年2月13日、ドジャース入団の会見を行った野茂英雄。団野村の当時の発言と近鉄の同僚投手たちの証言で1995年1月当時を振り返る
「あの時代は、ホンマに『メジャーに行く』ということ自体がピンとこない時代やん? 任意引退になったら行けるみたいやで、という話が途中から入って来たくらいでね。そんなことくらいしか分からへんかったから『ホンマに行けるん?』というのがまずあったね」
そう振り返ってくれたのは、野茂の2歳年上の山崎慎太郎だった。
1994年の野茂は、右肩痛の影響で8勝止まり。7月中旬からファームでのリハビリ調整が続き、8月も一軍登板は1試合だけ。そのエース不在の先発ローテーションを守り、その年、チーム最多の12勝をマーク、2位躍進に貢献したのが山崎だった。
「そんなにプライベートで、ずっと一緒におったわけじゃなかった。でも『行く』っていうのが夢、みたいな感じの話はしてたわ。ただ、現実味が湧かなかったんよ」
通用するかどうか、やっぱり分からないのよ
それは、メジャーで投げた日本人の前例が皆無に近かったからだ。
「基準がないやん。だから、通用するかどうか、やっぱり分からないのよ。でも、行ったら行ったで、あの野茂が、全盛期のときの野茂みたいな感じで投げたら通用するかな、とは思ってはいたんよ。それでまず『本当に行けるんやな?』『あ、行けたんや』という感じやったから、あとはもう『頑張れ』と、そういう感じやったよね。怪我のこともあったから、大丈夫なんかな、投げられるんかなと思ったりしていたくらいやから」
赤堀元之の証言
「野茂さんのメジャー志向は、もちろん分かっていました」と明かすのは、1994年当時、3年連続でパ・リーグのセーブ王に輝いていた赤堀元之だ。エース・野茂と守護神・赤堀は、当時の近鉄投手陣では絶対的存在だった。2歳年上の野茂は、プライベートでも行動をよく共にした、気の合う先輩でもあった。ただ山崎と同じく「野茂さんが下(二軍)にいて、僕は上(一軍)にいたんで、本当に『行く』という話は知らなかったんです」と当時の認識を明かす。噂レベルの話が一人歩きし始めた中、野茂が「メジャー挑戦」を訴えて、球団と揉めているという情報が漏れ伝わって来たという。