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将棋PRESSBACK NUMBER
藤井聡太は“未経験”だが…「ひふみん14歳が大山康晴vs升田幸三で似顔絵を」「羽生善治は春休みか夏休みに」大棋士の記録係秘話
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by日本将棋連盟
posted2024/05/30 06:01
名人戦第5局での藤井聡太名人と記録係の廣森航汰三段
うとうとしていると、対局者から指した合図に体をつつかれた。終局は真夜中の2時30分だった。現代なら義務教育中の深夜業務は問題になるが、記録係は奨励会員の義務として当然視されていた。
昔は複写機がなかったので、記録係は棋譜用紙を数多く書いた。将棋連盟提出に3通、それに両対局者、観戦記者、自分用にと10通ほど書いた。当たり前のように棋譜を受け取る対局者の一方で、「これは棋譜代」と言って500円をくれる対局者もいた。記録料が700円(有段者は800円)だったので、とてもうれしかった。
名人戦、初めての記録係で聞いた“大山の声”
私は1967年の名人戦(大山名人−二上達也八段)第3局で、タイトル戦の記録係を初めて務めた。対局場は静岡県の観光ホテル。東京から新幹線に初めて乗り、熱海駅の構内を歩いていると、立会人の棋士に「君、名人のカバンを持ちなさい」と指示された。大山に名前を言うと、「えっ、田丸というの。丸田さん(祐三八段)と逆なんだね」と応じてくれた。初めてじかに聞いた大山の声は、女性のように高音で柔らかかった。
名人戦の記録係では初めて尽くしで緊張し、対局者や関係者との夜の会食では勝手がわからず戸惑ったが、もう1人の記録係の先輩の奨励会員が何かと気を使ってくれた。2日目の終盤で二上の残り時間が迫っていたとき、大山は茶菓子を急に注文し、仲居たちが対局室にあわただしく出入りした。「大山は盤外戦術を使う」と聞いていたので、それかと思った。しかし、その必要がないほど形勢は離れていて大山が快勝した。
1967年度後期の棋聖戦(山田道美棋聖・左−中原誠五段)第4局でも学生服を着て記録係を務めた(当時二段・17歳)。対局場は木造の旧将棋会館だった。タイトル戦に初登場した中原(同20歳)が2連勝すると、山田は「3連敗したら対局料を返上する」と語って悲壮な決意で臨んだ。そして、第3局から3連勝して棋聖位を初防衛した。
ある長老棋士に「将来のために今回は負けて良かったんだ」と慰められた中原は、翌期の棋聖戦で再挑戦して初タイトルを獲得した。
ある対局場での奨励会員の「牛丼の恨み」とは
私は東京・広尾「羽沢ガーデン」でのタイトル戦の記録係を多く務めた。そこは料亭なので宿泊用の部屋は少ない。記録係は1日目は日帰りで、2日目の朝に出向いた。
羽沢では対局者や関係者に松阪牛のコース料理が供された。
ある棋戦の担当記者は、記録係には別室で牛丼を出して帰らせた。そんな扱いに不満を持った奨励会員の中には、後年に棋士になったときに「牛丼の恨み」として、その主催紙に反発を覚えたという。ただ担当記者は記録係を差別したつもりはなく、先輩たちとの会食は息苦しいだろうと考えたようだ。
1971年の王将戦(大山王将・左ー中原十段)第1局でも田丸が記録係を務めた。対局場は神奈川県・箱根の旅館で、現代のようにネット中継や現地大盤解説会はなかった。対局はひっそりとした雰囲気で行われていたのだった。<前編からつづく>