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藤井聡太は“未経験”だが…「ひふみん14歳が大山康晴vs升田幸三で似顔絵を」「羽生善治は春休みか夏休みに」大棋士の記録係秘話
posted2024/05/30 06:01
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
日本将棋連盟
約60年前の将棋雑誌に観戦記者たちが内幕を語った座談会が掲載され、「記録係で態度の良くない方が将来に伸びた」という逆説的な話が出た。その最たる者が升田幸三(実力制第四代名人)だという。
奔放な升田と加藤一二三、律儀な大山
升田は10代後半の三段時代に公式戦の記録係を務めたとき、勝負がついている局面で難しそうに考えているのにあきれてしまい、消費時間を勝手に多くつけて早く終局するようにしたという。後年に鬼才と呼ばれた升田が見ると、結論はすでに出ていたのだ。
升田の弟弟子の大山康晴(十五世名人)は律儀で、記録係をきちんと務めていた。記録料は封を開けずに師匠(木見金治郎九段)夫人に渡し、経費だけ受け取ったようだ。
1954年の名人戦(大山名人ー升田八段)第3局は福岡県小倉市で行われ、県出身の加藤一二三・三段(当時14歳)が記録係を務めた。第2局では升田が終盤で時間切れ負けを喫したので、関係者たちは緊張しきっていた。しかし、加藤だけはどこ吹く風という様子で、対局者が長考するとその似顔絵を描いたそうだ。当時の名人戦も記録係は2人制。名記録係と呼ばれたK三段が取り仕切っていたので、加藤は気楽な立場だった。
米長18歳は大山vs升田の特別対局で…
1962年に産経新聞社が棋聖戦を創設し、大山名人と升田九段の特別対局3番勝負が記念企画として行われた。
その第2局で米長邦雄三段(同18歳)が記録係を務めた。米長は黙々と棋譜を書きながら両者の戦いぶりを注視し、対局者と同じように読んでいた。終盤の土壇場の局面で、自玉の受けがなくなった大山は、62分の長考をして升田の玉を詰めにいった。
しかし、わずかに詰まず、升田が勝った。終局直後に升田は「米長くん、詰んどったんじゃないか」と記録係に声をかけた。すかさず米長は「はい。角を打ってから▲8五金と打ち、後で▲8三銀なら詰みです」と、よどみない口調で詰み筋を指摘した。それを聞いた大山は「えっ? ああそうか……」と声を上げた。
第1図(※外部配信サイトの方は関連記事からご覧になれます)は実戦の変化局面の部分図。▲8五金が盲点となる王手だった。持ち駒が金銀の場合、金を残すのが詰めの常識である。
第1図から△8三玉▲8四金△9二玉▲8三銀△8一玉▲7二銀不成(第2図)と追えば、△同玉(△9二玉は▲8三金で詰み)▲7三金△8一玉▲7一角成△同玉▲6二成香△8一玉▲7二成香△9二玉▲8二成香△9三玉▲8三金でぴったり詰む。
第1図で▲8五銀だと、第2図で▲7二金の形となり、△9二玉で詰まない。
鬼才と呼ばれた升田が記録係に詰みの有無を問うのは異例のことだが、以前から米長の才能を高く評価していた。