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巨人FA移籍「落合vs清原」騒動…落合博満が清原和博にダメ出しした日「高校時代のほうがよかったな」清原の告白「西武では孤立していた」 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph bySankei Shimbun

posted2024/05/26 11:01

巨人FA移籍「落合vs清原」騒動…落合博満が清原和博にダメ出しした日「高校時代のほうがよかったな」清原の告白「西武では孤立していた」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1988年の日本シリーズ。西武・清原和博が出塁し、中日・落合博満と談笑する 

「清原はコーチのいうことにいっさい耳を貸さない。アドバイスできるのは落合だけ。スランプに陥っても、いつまでも一人で悩んでる」(週刊現代1996年4月27日号)

西武オーナー“異例の声明”

 1995年にFA権を取得した清原だったが、肩の怪我もあり、西武残留を決断。契約更改では自ら減俸を申し出て、2000万円ダウンの2億3000万円プラス出来高でサインするも、複数年契約を拒否して単年契約にこだわった。翌96年は、開幕直後から多くのメディアが、シーズン後の清原のFAでの巨人入りを決定事項のように報じたが、それでもなお西武グループにとって背番号3は、ミスターレオであり、球団の顔だった。

 西武球場では8月27日から9月1日まで清原の29歳の誕生日を記念して、「ナイキ清原デー」を開催。西武球場前駅から球場までの道のりは清原のポスターで埋めつくされた。9月16日には、堤義明オーナーが「清原を西武から出せないというより、西武は清原を中心に作ってきたチームだから」(週刊ベースボール1996年10月7日号)という異例の声明とともにあらためてFA移籍を引き留める姿勢を打ち出す。

ルーキー清原に「罰金400万円」

 だが、背番号3を巡る現場の見解は、フロントとは真逆だった。当時の西武は、9シーズンで8度のリーグ優勝という圧倒的な強さを誇った森祇晶監督が退任して、秋山幸二や石毛宏典ら黄金時代を支えたメンバーも続々と所沢を去っていた。1995年から指揮を執る東尾修監督のもと、鈴木健や松井稼頭央ら若手選手を中心にチーム再建に乗り出す時期だったのだ。

「世代交代を図らなければならない段階だったが、清原がベンチでブスッと座っていると、周りの若手は萎縮してしまう。清原は左肩に脱臼癖があるため、野手の一塁送球が少しでも右側にずれると嫌な顔をする。そのためセカンドの高木浩之はイップスになってしまった。とにかく、当時は清原の存在が悪循環ばかりを生んでいた」(東尾修/負ける力/集英社)

 東尾は現役時代に清原を弟分として可愛がった。ルーキーの清原が4回目の門限破りで400万円もの罰金を科せられ、もう球団を辞めると駄々をこねると、見かねたベテラン東尾が森祇晶監督に罰金減額の直談判をしてくれた。東尾だけじゃない、エース格の渡辺久信も18歳の背番号3を自分の車に乗せて、青梅街道沿いのリンガーハットで長崎ちゃんぽんを奢ってやった。あの頃の清原和博は、みんなの弟だったのだ。

清原「西武では孤立している雰囲気でした…」

 やがて月日が経ち、兄たちは続々とチームを去り、清原が西武を背負う立場になった。だが、若手陣は黄金時代からの主力で堤義明オーナーから寵愛を受ける偉大な背番号3の存在に萎縮している。

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