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JリーグPRESSBACK NUMBER
「上手すぎて近寄りがたかった」若き日の中田英寿が恐れた男・財前宣之が明かす〈天才少年伝説〉のリアル「自分の才能を特別とは思わなかった。ただ…」
text by
生島洋介Yosuke Ikushima
photograph byAFLO
posted2024/05/17 11:00
1993年U-17日本代表での財前
シニョーリが「入れよ」
「普段はプリマベーラ(20歳以下)で練習をしていました。ただ、上下の連携が取れていたので、トップのキャンプにも呼んでもらえた。普通に考えれば、留学生なんて紅白戦に出られないでしょう。でも、顔を覚えてくれた(ジュゼッペ・)シニョーリが『お前はいいパッサーだな。入れよ』って言ってくれたり。契約の可能性がある立場じゃなかったけど、邪魔者扱いされていない評価が嬉しかったですね。
毎日練習したプリマベーラは、トップの公式戦に出始めた(アレッサンドロ・)ネスタや(マルコ・)ディ・バイオもいて強かった。でも自分は全然やれていたと思います。だからトップの練習にも呼ばれた。(トップのズデネク・)ゼーマン監督に言われたのは、なんで18歳で勉強しに来るんだってこと。18歳は勝負のタイミングだよ、と。もちろんいまなら、遅いってわかりますけどね。あのときの俺からすれば、留学するだけでもすごいことで、代理人はあのトップクラブに留学する話をよくまとめてくれたと思いますよ」
実際、この留学はスポーツ紙で大きく報じられた。それほど当時の日本では海外クラブは遠い存在だった。18歳で単身イタリア・ローマへ渡った財前は、いったいどんな生活を送っていたのだろうか?
18歳のイタリア生活
「サッカー漬けでしたよ。通訳もいなかったので、管理人がいて家具も付いていて掃除もしてくれるレジデンスにひとりで住んでいました。平日はタクシーで練習に行って、帰ったらイタリア語を勉強する。週末になると今度はオリンピコでセリエを見て勉強です。ラツィオとローマ、常にどちらかの試合が観られるんで。
オリンピコでは、同世代のライバルたちが化けていくのも目の当たりにしました。ネスタとか、ローマの(フランチェスコ・)トッティが少しずつ試合に出るようになっていて、たいして活躍しなくても我慢してまた必ず使われてた。でも、そのうち直角くらい一気に成長するんですよ。17歳くらいまでは日本人もやれると肌で感じたけど、18、19歳ぐらいからの伸び方には本当に驚きました。
イタリアでも(99年の)クロアチアでも同じ国にいたカズさんにはお世話になりました。若くてホームシックもあったし、なにか悩んだら会いに行って、カズさんの優しさにふれて帰ってくる感じでした」
ローマで充実した1年をすごした財前を、代理人はスイスのクラブへ移籍させようとしていた。若手選手が活躍する見本市のようなリーグで存在をアピールし、スペインやイタリアへのステップアップを目指していた。一っ飛びで駆け上がっていく世界への階段。しかしそこには、思わぬ落とし穴が待っていた。
(後編へつづく)