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8年間で一軍登板ゼロ、怪我に泣いた巨人ドラフト1位が戦力外通告を受けた日「ホッとしました」「最後のマウンドは投げられる状態じゃなかった」
text by

佐藤春佳Haruka Sato
photograph byKoji Asakura
posted2024/05/13 11:01

巨人でのルーキーイヤー。豪快に投げ込む辻内
「秋の男」と言われて
「投げ終わると腫れていて、肘が少ししか動かなくなる。中10日で投げさせてもらっていたんですが、肘が痛くて立ち上がってこないんです。練習も、キャッチボールも、ブルペン投球もしたくないんです、痛くて。でも練習しないと試合に投げさせてもらえないから無理に投げる。そしてまた痛くなる。そんなループでした」
二軍の試合では登板していたが、そのたびに痛みがぶり返す。さらに左肩痛も抱える二重苦の中で、2年、3年と時間だけが過ぎていった。
「少しだけ良くなる時期があって、それが大体秋なんですよ。フェニックス・リーグで150kmくらい出して、ウインター・リーグに行く。でも自主トレからキャンプに入るとまた痛くなって……。だから僕、“秋の男”って言われていました(笑)。毎年、戦力外の候補に上がって自分自身でももうダメだろうな、と思う。テストされているんだ、と思いながらフェニックス・リーグに参加して、痛いですけど投げられる。そこで何とか生き残って、という感じで8年持ちました」
スルリと逃げた「プロ初登板」
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プロ生活で一度だけ、一軍のマウンドに最も近づいた瞬間があった。2012年8月16日、二軍で登板を積んだ辻内さんがプロ入り後初めて一軍に呼ばれた。左の中継ぎとして、予定ではナゴヤドームの中日戦でプロ初登板するはずだった。
「その試合で、杉内(俊哉)さんがめちゃめちゃいいピッチングしたんです。8回まで無失点。ブルペンで準備をしていたら原監督が入ってきて腕を組みながら頷いて去っていった。ああ、ないんだって」
続く東京ドームでの広島戦、神宮のヤクルト戦でもブルペンでスタンバイしていた。しかし奇しくもチームはこの間、引き分けを挟み6連勝。西村健太朗や山口鉄也ら、鉄壁の勝ちパターンが揃っていたリリーフ陣で辻内さんの出番はなかった。結局8月22日に出場選手登録を抹消。一軍にいたのは7日間、プロ初登板はついに叶わなかった。
「なかなかいい試合展開にならなかった。あの時に投げられていたら一軍登板が『1』になったかもしれない。それはちょっと残念です。でも運が悪かったとは思わないです。そもそも、8年間もプロにいられたことは本当に幸運だったと思っています」
「散ってこい!」送り出されたマウンド
翌13年、春季キャンプは一軍スタートだった。左肩と肘の状態はやはり、良くはなかった。投球練習でピッチが上がらない左腕に原監督は「悔いを残さないように」とゲキを飛ばした。迷いを断ち切るかのように3日連続でブルペン入りしてアピールをしたが、そこで満身創痍の身体が悲鳴を上げた。左肘に激痛が走り、腕が上がらなくなった。3月には、遊離軟骨の除去手術のため再び左肘にメスを入れた。もはや限界だった。