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「井上尚弥は東京ドームの魔物すら呑み込んだ」タイソンとの“最大の違い”は何だったのか? 34年前の大番狂わせを取材した記者が明かす舞台裏
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph byNaoki Kitagawa
posted2024/05/11 11:02
初回のダウンを見事に挽回し、ルイス・ネリをTKOで沈めた井上尚弥。34年前、東京ドームで敗れたマイク・タイソンと同じ轍を踏むことはなかった
井上尚弥は慌てる素振りを微塵も見せなかった
めくるめく時代の移り変わり。ただ、どんな時代であろうと、倒される姿が想像できないボクサーが倒れているシーンほど衝撃的なものはない。34年前のタイソン。現在の井上尚弥。そのインパクトは変わらず、今回も心の整理がつかなかった。タイソンのときと同様、どう受け止めればいいのか。途方にくれるしかなかった。
井上にとってはキャリア初のダウンだった。敗北はおろか、ダウンする姿すら想像できないほど、彼のイメージは神格化していた。
ゆえに、その刹那、4万人を超える大観衆で埋まった東京ドームは大きなどよめきに包まれた。あるいは、一番驚いていたのは井上自身だったかもしれない。「嘘だろ?」とでも呟きそうな表情を浮かべていた。
ここで特筆すべきは、その後の井上が慌てる素振りを微塵も見せなかったことだろう。カウント8でしっかりとファイティングポーズをとり、試合を再開させた。試合後、井上は日頃のイメージトレーニングで、様々なシチュエーションでの攻防を想定していることが活きたと明かしている。日本ボクシング史に残る絶対王者は、自身が倒されたシチュエーションをも想像していたのか。
その後の逆転劇はいわずもがな。1ラウンドは大きなフックやワンツー主体の組み立てだったが、2ラウンドからはストレートやショートフック、あるいはボディを織り交ぜた右から始まる連打が目立っていた。ダウンを奪われたことで、戦法を変えたことは明白だった。
過去、山中慎介を相手に禁止薬物の摂取、体重オーバーと2度も愚行を犯しているネリは、今回も自由奔放に生きるメキシカンだった。前日計量では契約体重より約500グラムも軽い54.8kgでクリアして周囲を驚かせたが、その後の囲み取材はボイコットした。試合後も「大事をとって病院へ」という理由で会見場には姿を現していない。
言葉ではなく、態度で自分の気持ちを表現するのはヒールの鉄則だ。リミットぎりぎりではなく、落としすぎたところもネリらしかった。案の定、ネリはボクシングファンの大きなブーイングとともに迎えられた。
そんなネリも1ラウンドのダウンが嘘のように、2ラウンド以降はエンジンのかかった井上の猛攻の前に、どんどん追い込まれていく。ダウンを奪われたあとの井上のボクシングは凄まじかった。2階級にわたり4団体を統一したボクシングスキルだけではなく、この日集まった大観衆にはっきりと伝わるほどの“闘う気持ち”を見せてくれた。