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「えっ、何も聞いてないんですか?」“敗者ネリの異変”を密着記者は見た…井上尚弥への恐怖心「ネリ、もう立ち上がるな…」思い出した3人の娘 

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田中仰

田中仰Aogu Tanaka

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photograph byNaoki Fukuda

posted2024/05/09 17:16

「えっ、何も聞いてないんですか?」“敗者ネリの異変”を密着記者は見た…井上尚弥への恐怖心「ネリ、もう立ち上がるな…」思い出した3人の娘<Number Web> photograph by Naoki Fukuda

5月6日、井上尚弥vsルイス・ネリ。筆者は来日から2週間、ネリを取材した

 直後、巨大スクリーンにメキシコ国旗が映し出され、ネリとその一団が登場する。ネリの表情を双眼鏡で見て、少し安堵した。前日の計量時より顔色がいい。挑発的なパフォーマンスもなく、落ち着いてリングに向かう。

 リングに登るやいなや、Tシャツを脱ぐ。いつでもゴングを鳴らしてほしい、と言わんばかりだ。井上尚弥がリングに登るまでの間も、ネリは身体を動かし続ける。目線はスクリーンにも、近づく井上にも向いていない。リングの中央をただじっと見つめている。軽くステップを踏みながらシャドウボクシングをする。トレーナーと二言三言、言葉を交わす。頷くネリ。怪物の到着を待つ。

「ネリは本当に嫌われている」

 ネリがリングへと向かう間、観客席からはまばらな野次しか聞こえなかった。「日本中から嫌われた男」は誇張されたイメージだったのではないかと疑ったが、それは勘違いだった。リング上でネリの名がアナウンスされた瞬間、客席のあらゆる方向から、耳を覆いたくなるほどのブーイングが響く。思えば、公式にファンの前に姿を現すのは来日後初めてであった。あらためて痛感する。ネリは日本のボクシングファンから本当に嫌われている……。「パンテラ!ネリ」。同胞であるメキシコ人からの声援も聞こえるが、さみしいものだ。対照的な井上尚弥への大歓声。「完全アウェー」で怪物と戦う。もう、逃げられない。ゴングが鳴る。

 注目は絞られていた。用心深さを欠けばあっという間に打ち込まれ、マットに沈むだろう。恐怖心に支配されれば防戦一方のつまらないショーになる。ネリに残された戦い方に活路はあるのか。

 私はボクシングの試合について語る言葉を持たない。だが一つ、これだけは確信を持って言える。ネリは果敢に攻め続けた。

「もう立ち上がるな…」

 1R、井上からプロ初のダウンを奪う。悔しさよりも驚きが先にたったのか、呆然とする井上。観客から悲鳴さえ上がらない。真に予想外の展開に、4万3000人が言葉を失った。

 しかし試合が進み、井上が落ち着きを取り戻すにつれて、ネリは明らかに圧倒されていく。打たれる。打たれる。が、引き下がらない。顔が赤く腫れていく。よろめくシーンも増えた。だから、5Rに2度目のダウンを喫したとき、率直に「もう立ち上がるな」と思った。羽田空港到着時に見た、ネリの3人の娘が頭をよぎる。あの井上からダウンを奪った。あの井上を恐れずに攻めた。それで十分じゃないか、と。それでもネリは、攻め続けた。恐怖心に打ち勝とうと言い続けた「イノウエは過大評価されている」。自己暗示でもあったかもしれないその仮説を、自らの拳で証明しようとしていた。

 6R、1分22秒。吹き飛ばされながらダウンした瞬間、レフリーが試合を止めた。

そして、ネリは来なかった

 試合後のプレスルームには、相反する感情がないまぜになった、奇妙な空気が充満していた。

【次ページ】 そして、ネリは来なかった

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