甲子園の風BACK NUMBER
“細身のイチロー”や工藤公康、東克樹らが16~18歳時点で超一流になると想像すら…愛工大名電65歳監督「自分の目が正しいとは思いません」
text by
間淳Jun Aida
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO,JIJI PRESS
posted2024/03/21 17:15
愛工大名電時代のイチローと工藤公康
次のイニング、工藤氏はマウンドに上がった。倉野監督が回想する。
「中村監督は『これで工藤の高校野球が終わるのはあまりにもかわいそう。1イニング、1球だけでも良いからマウンドに立たせてあげたい』と言って工藤を交代させませんでした。そして、あの死球で工藤は覚醒しました」
工藤氏は高校1年生から起用されていたが、制球力と体力に課題があり、終盤にコントロールを乱す試合が少なくなかった。2年生の秋は守備の乱れもあって、格下と思われていた公立高校に県大会で敗戦。3年生の春は東海大会で、最終回に5者連続の四球を与えて敗れた。倉野監督は「自滅型の投手で大事な試合で勝てないレッテルを貼られるような投手」と表現する。
東邦戦で死球を受けた直後のマウンドで、工藤氏の投球スタイルは今までと一変したという。力が上手く入らなかったせいもあったのか、脱力してコントロールが安定した。試合は、そのまま勝利。チームは「工藤を助ける」と一丸になり、甲子園でベスト4まで勝ち上がった。倉野監督は「死球を受けた工藤を続投させた中村監督も、マウンドに立った工藤もすごかったですね。1つの出来事が人生を変えると知りました」と話した。
“100球ぴったり”でブルペンを出た投手イチロー
頑固さが忘れられない選手には、イチロー氏以上の存在はいない。
当時は身長170センチ、体重55キロと細かった。倉野監督は「ベースランニングを数本こなすと走れなくなるほど、体力がありませんでした。必要だと判断したメニューは徹底的にやる一方、不要だと思ったものは一切やりません。高校生としては驚くくらい自分で考えていました」と思い返す。
投手もしていたイチロー氏は200球の投げ込みを課せられても、100球ぴったりでブルペンを出た。しかも、肩や肘を故障するリスクから、捕手を立たせたまま投げていたという。試合前日に指導者から「ストライクを取る感覚を確かめた方が良いのではないか」と捕手を座らせて投げるように勧められても、「でき上っているので大丈夫です」と答えるだけだった。
野手での出場が決まっていた試合当日は、試合前ノックに参加しなかった。ノックから緊張して硬くなるチームメートとは対照的に「ノックは受けなくて大丈夫です。暑くて疲れてしまうので」と自らのスタイルや考えを貫いた。当時監督だった中村氏やコーチをしていた倉野監督は「野球をするのは本人」と結果が出ているうちは選手の意見を尊重した。
「1人だけプロ選手が」とイチローが驚かれたワケ
当時の高校球児の常識では測れないイチロー氏のエピソードがある。