甲子園の風BACK NUMBER
“細身のイチロー”や工藤公康、東克樹らが16~18歳時点で超一流になると想像すら…愛工大名電65歳監督「自分の目が正しいとは思いません」
posted2024/03/21 17:15
text by
間淳Jun Aida
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO,JIJI PRESS
指導者として母校のユニホームに袖を通して42年が経った。
愛工大名電の倉野光生監督は名古屋電気高校(現・愛工大名電)で主将を務め、愛知工業大学に進学。卒業と同時に母校で指導者のキャリアをスタートした。
コーチから監督に就任したのは1997年、38歳の時だった。そこから、監督として今春の高校野球大会出場が春夏合わせて17回目の甲子園となる。2005年のセンバツでは優勝も成し遂げている。
プロ野球にも多数の選手を送り出してきた。最近では昨シーズン16勝をマークして最多勝のタイトルを獲得したDeNA・東克樹投手や、高卒2年目で侍ジャパンに抜擢された広島・田村俊介選手らがいる。倉野監督は「高校生との良い出会いがたくさんありました。OBたちでプロ野球のあらゆるタイトルを獲っていますね」と教え子の顔を思い浮かべる。
研究熱心で頑固、負けず嫌いだった工藤
数多くの選手を指導してきた中でも、強烈な記憶として刻まれている選手が3人いる。
まずは、西武や巨人などで通算224勝を記録した工藤公康氏。倉野監督がコーチを始めた時、工藤氏は高校3年生だった。
プロ入り後の姿を見ると想像できないが、高校時代の工藤氏はコントロールに苦労していたという。倉野監督は「研究熱心で観察力に優れていました。それから、とにかく頑固で負けず嫌いでした」と振り返る。当時、自分が信じた理論を徹底的に勉強し、フォームの再現性や制球力の向上を追求した。
そして、自分に課した練習を曲げることもなかった。
指導者から「マラソン選手のような体型になるから、ランニングをやめろ。野球選手には筋肉が必要」と何度説得されても、首を縦に振らない。「自分で走ると決めたので」と華奢な体に鞭打つようにランニングを続けた。倉野監督は「人の何倍も走ったことが最終的にプロでの強みになりました。高校時代に強い下半身をつくったのだと思います」と語る。
顔面に死球を受けても工藤はマウンドに
工藤氏を語る上で、倉野監督には忘れられない出来事がある。
高校3年生の夏、工藤氏は愛知大会の東邦戦で顔面に死球を受けた。ユニホームは血で染まり、右目は開けられないほど腫れ上がった。ベンチに運ばれ、誰もが病院に直行すると思っていた。
ところが、当時監督だった中村豪氏は投手交代を告げなかった。