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「死ぬのは怖くない。怖いのは人間、大人は卑怯じゃ…」師匠の前で号泣した“難病の天才棋士”が「終盤は村山聖に聞け」の評判を得るまで 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byKyodo News

posted2024/03/14 17:02

「死ぬのは怖くない。怖いのは人間、大人は卑怯じゃ…」師匠の前で号泣した“難病の天才棋士”が「終盤は村山聖に聞け」の評判を得るまで<Number Web> photograph by Kyodo News

1996年度の「早指し選手権戦」で優勝し、カップを手にする村山聖八段(前列右から2人目)

「病気で死ぬことは何も怖くない。怖いのは人間じゃ。大人は卑怯じゃ……」

 森は「来年や。今は我慢してや」と慰めるしかなかった。

 村山が挫折感から体調を崩し、ネフローゼも再発して入院していた83年の春。森は村山の病気が回復したら、大阪のアパートに呼び寄せようと決心した。そして、8月から6畳と3畳の部屋での珍妙な共同生活が始まった。村山は養護学級がある近くの大淀中学校に転入した。

師匠の差し入れは棋書ではなく、10冊の少女漫画

 森と村山の師弟には、髪や髭は伸び放題、風呂に入らない、顔を洗わない、歯を磨かないなど、共通のむさくるしさがあった。

 村山にとっては楽な師匠だった。当初は森が食事を作ったが、まずかったのですぐに止めた。その後、関西将棋会館の近くの「更科食堂」という定食屋に毎日のように通った。村山は焼き魚定食をいつも注文した。夕食の後は、森は麻雀荘に行き、村山は会館道場で将棋を指した。時間を示し合わせて一緒に帰った。

 83年12月、村山は関西奨励会の入会試験に合格して5級で入会した。名人を目指す出発点にやっと立てた。1年前に同じく関西奨励会に入会した同世代の佐藤康光は2級、天才少年の呼び声が高い関東の羽生は1級に昇級していた。また、奨励会入会時に目標にした谷川は、同年6月に21歳2カ月の最年少記録で名人を獲得した。

 村山が奨励会に入っても、森との共同生活に変化はなかった。勉強場所が関西将棋会館の2階道場から、棋士や奨励会員が集まる3階の棋士室になったくらいだった。中学校から帰ると毎日のようにその部屋で、棋譜を並べたりモニターテレビに映る進行中の対局を検討した。

 村山は奨励会に入会後、体調を崩して近くの病院に入院し、例会日(月に2回)を続けて欠席した。心配した森は主治医に頼み込み、例会日だけ外出する許可を得た。森は村山から本の差し入れを頼まれたことがある。それは棋書ではなくて、10冊の少女漫画だった。厳しい現実を忘れさせる夢とロマンが描かれていた。

 森は村山が退院すると、両親や主治医と相談した末、食事面や生活面を考慮して広島から奨励会に通うのが最良と判断した。84年4月、村山は府中中学校の養護学級に転入した。

「終盤は村山に聞け」の言葉が生まれた瞬間

 村山は実家と学校で規則正しい生活を送り、奨励会の例会に新幹線で通った。

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