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29歳で死去「消えた天才棋士」村山聖は幼少から必死に生きていた…中1にして「大阪へ1人で行く!」決断させた“未来のライバル”とは
posted2024/03/14 17:01
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
日本将棋連盟
村山聖は1969年(昭和44)6月15日、父親の伸一、母親のトミ子の第3子の次男として、広島県安芸郡府中町で生まれた。父親は尊敬する聖徳太子の一字を取り、聖(さとし)と命名した。
村山は両親と兄姉の愛に育まれ、幼少期を健やかに過ごした。野山で遊ぶのが大好きだった。ところが、4歳の頃から原因不明の高熱にたびたび襲われた。近所の医者の診断は風邪で、通院して薬を服用すると治った。その1年後、父親は村山の顔が膨れ上がっていることに驚いた。
広島市民病院に村山を連れていくと、医者に「ネフローゼ症候群」と診断された。腎臓の濾過機能の異常で蛋白が尿に排出され、血液中の蛋白濃度が低下することで、顔や手足がむくむ病気である。重症になると呼吸困難に陥って死の危険もある。
74年7月、村山は同病院に緊急入院した。安静にすると元気になったが、活発な性格なので遊びまわっては体力を使い果たし、また発熱して体調を崩した。その後、入退院を繰り返した。
聖は将棋を覚えたことによって変わりました
村山は2年後の76年4月に府中小学校に入学したものの、病状は一進一退だった。2年生になると主治医の判断で、広島県の国立療養所原病院の施設に入った。再生不良性貧血や白血病などの難病を抱えた子どもたちが多くいた。昨日まで一緒に過ごした仲間が翌日に亡くなることがあり、死と隣り合わせの状況だった。
原療養所の生活は6時の起床から21時の就寝まで規則正しく、自由時間は計3時間ほどあった。村山は子どもたちと将棋を指したり、父親が差し入れた棋書を読んだ。小学1年のときに将棋を教えた父親は、このように語っている。
「聖は将棋を覚えたことによって変わりました。あれほど動き回っていたのに将棋に熱中し、我が儘もなくなりました」
そして村山の日記には《今日もしょうぎのれんしゅうを六、七時間しました》《しょうぎのせめ方という本をべんきょうしました》など、将棋に打ち込んだことが毎日のように書かれていた。
村山が外泊許可(月に3日)を得て実家に帰ると、近所のアマ三段の人と指したり、広島将棋センターに行って指したりした。それまでは療養所で初級者の子どもたちと指しただけなのに、すでに有段の実力がついていて大人たちを負かした。毎日10題を必ず解いた詰将棋(王手の連続で玉を詰ます問題)によって、特に終盤の寄せが強かった。
将棋を指して療養所に帰った夜、「もっと強くなりたい」「名人になりたい」と心の中でつぶやいた。
後の中井女流に負けて「東京はすごいもんじゃ」
81年5月、村山は父親に連れられて東京に初めて行った。千駄ヶ谷の将棋会館で行われる小学生名人戦に参加するためだった。