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「天才棋士29歳・最期の奮闘」死の半年前にA級復帰…対局相手だった田丸昇九段が知る「西の村山vs東の羽生善治」生涯の名局と『聖の青春』

posted2024/03/14 17:03

 
「天才棋士29歳・最期の奮闘」死の半年前にA級復帰…対局相手だった田丸昇九段が知る「西の村山vs東の羽生善治」生涯の名局と『聖の青春』<Number Web> photograph by Kyodo News

98年2月、B級1組順位戦で田丸昇八段(手前右)に勝ち、A級カムバックを決めた村山聖八段

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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Kyodo News

 1980年代後半には「東の羽生善治、西の村山聖」と、両者は若手精鋭として並び称されていた。1998年8月8日、その村山は目標にした名人を獲得する前に29歳で早世した。谷川浩司や羽生との激闘、阪神淡路大震災で受けたショック、東京の棋士たちとの交友、結婚への夢、A級へ復帰昇級後に再発したガン、今わの際につぶやいた棋譜、没後に刊行された評伝とその映画化など、「消えた天才」の村山聖八段(追贈九段)の壮烈な人生について、公式戦で村山と対局したことがある田丸昇九段が後編で振り返る。※敬称略。棋士の肩書は当時(全3回の第3回/第1回第2回も配信中)

村山の指摘どおり、私が勝ち筋になった一局

 1986年(昭和61)7月下旬、私こと田丸七段は王座戦の準決勝で桐山清澄棋聖と大阪・福島の関西将棋会館で対戦した。当時の私は36歳の指し盛りで、B級1組順位戦ではA級への昇級争いに入っていた。

 その一戦は192手に及ぶ長手数の激闘の末に私が敗れた。終局後に終盤で何か勝ち筋があったはずだと検討したが、よく分からなかった。すると対局室に入ってきた10代の奨励会員から、「こう指せば勝ち筋」と小声で言われた。その少年こそ驚異的な終盤力で「終盤は村山に聞け」と言われた村山聖三段だった。実際に村山の指摘どおり、私が勝ち筋になった。「怪童」とも呼ばれた村山の強さを思い知ったものだ。

 86年11月5日、村山は奨励会(棋士養成機関)で規定の成績を挙げ、四段に昇段して17歳で棋士になった。奨励会をわずか3年で突破した。後日にインタビューを受けると、「人生の最終目標を達成できました」と語ったが、もちろんジョークだ。名人の獲得に向けて、新たな出発点に立ったのだ。

 村山新四段は同年12月のデビュー戦で、師匠の森信雄五段に贈られた背広を着て臨んで勝利した。その後も公式戦で勝ち続け、86年度の通算成績は12勝1敗だった。

ぼく、20年も生きられてうれしい

 村山は棋士になっても、部屋をかたづけない生活は変わらなかった。

 関西将棋会館に近い4畳半の「前田アパート」には、漫画や推理小説の本とゴミであふれていた。ダニがいても生き物を殺すのはかわいそうだと思い、殺虫剤で駆除しなかった。同じ理由で指の爪も伸ばしたままだった。小学生時代に療養所で死と隣り合わせた日々を送ったので、何でも「生きる」ことにこだわっていた。

 村山は初参加した1987年度のC級2組順位戦で9勝1敗の成績を挙げ、10戦全勝の羽生善治四段とともにC級1組へ昇級した。

 以降の年度でも好成績を挙げた。ただC級1組順位戦と若獅子戦の決勝では、ライバル視した羽生五段に敗れた。

 89年6月15日、村山は森がいる麻雀荘をふらりと訪ねた。

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