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「死ぬのは怖くない。怖いのは人間、大人は卑怯じゃ…」師匠の前で号泣した“難病の天才棋士”が「終盤は村山聖に聞け」の評判を得るまで
posted2024/03/14 17:02
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
Kyodo News
将棋界の「消えた天才」村山聖八段(追贈九段)の人生を追った特集記事の第2回。公式戦で対戦したことがある田丸昇九段が、本稿では師匠の森信雄との珍妙な共同生活、「終盤は村山に聞け」と言われたほどの驚異の終盤力、辛い闘病生活などについて振り返る。※敬称略。棋士の肩書は当時<全3回の第2回/第1回、第3回も配信中>
師匠の森が気に入った“意志の強そうな瞳”
奨励会の試験を受けるには棋士である保証人(師匠)が要る。村山の父親は広島将棋センターの経営者を通して、大阪在住の森信雄四段を紹介された。村山は1982年の初秋に両親に連れられて大阪・福島の関西将棋会館に行き、森と初めて対面した。
森は1952年に愛媛県で生まれた。71年に南口繁一八段の門下で関西奨励会に4級で入会。76年に四段に昇段して棋士になった。80年には新人王戦で棋戦に初優勝した。
森が素足にズックの村山を見て「靴下を履かんといかんよ」と苦笑しながら注意すると、母親は「この子は無駄なものを身に着けるのが嫌なんです。私が言っても聞きません」と説明した。森はそんな村山を弟子にすることを即断した。身なりはともかくとして、難病と闘ってきた意志の強そうな瞳が気に入ったという。
82年10月、村山は関西奨励会の入会試験を森門下で5級で受けて合格した。ところが思わぬ事態が生じた。父親がある将棋指導者に、師匠の紹介を別に要請していたのだ。関西棋界の重鎮だったその棋士は、「親友に頼まれて弟子にしたのに、別の門下で奨励会試験を受けたのは承服できない」と異議を唱えた。
病気で死ぬことは何も怖くない。怖いのは人間じゃ
その後、森は八方手を尽くしたが、「二重師匠」問題の解決は難航した。自身の師匠の南口にその棋士との話し合いを頼むと、今年は村山の入会を断念して、翌年に森門下で受験する、ということで決着した。
森が村山に苦渋の報告をすると、村山は泣きじゃくった。