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甲子園が震えた「恐怖の9番打者」“IT社長”になった今だから話せる、名将・蔦監督の逆鱗に触れたあの日…「9番は懲罰打順だった」
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2024/02/09 11:02
1982年夏の甲子園で優勝した池田高校。2試合連続本塁打など攻守で活躍した山口博史(写真)だったが、なぜ「9番」という打順だったのか
高校3年の徳島予選。この時、山口は主に3番を任され首位打者に輝き、絶好調の真っただ中にいた。しかし、甲子園の切符をつかみ、大会に向けてバッティング練習をしていた時だ。ゲージ横に座っていた蔦文也監督の信じがたい声が、耳に入ってきた。
「甲子園に行ったら、おまえのスイングじゃ打てん。バットを寝かせて打て!」
その場は言うとおりにしたものの、蔦監督が目を離した隙にバットを立てて打ってしまった。それが見つかり、監督の逆鱗に触れ、すぐに練習から外された。
強気な姿勢を貫き「攻めダルマ」の愛称で高校野球ファンに愛された蔦監督だが、選手にとっては、とてつもなく恐ろしい存在だった。
「俺たちの世界ではご飯は『白』だねと言っても、蔦先生が『黒』と言えば『黒』になる。そういう世界だった。俺が『おはようございます』と言っても、『おはよう』と返ってきたことはない。怖くてまともにしゃべったことはなかった」
蔦監督の指示を守らなかった山口は背番号も二桁に落とされたが、甲子園メンバー発表の時に、ようやく背番号6を渡される。ただ蔦監督からは「3番では使わない」と宣告され、降格が決まった。くしくもこうして「恐怖の9番打者」が誕生したのだった。
ボールが顔面に直撃「歯茎がめくれていた」
試練は甲子園の本大会でも続いた。甲子園で初戦を突破した後、2回戦の日大二(西東京)戦の直前練習で、投手が投げたボールが顔面を直撃し、血が滴り落ちた。病院に行くと上の歯茎がめくれていた。医師から「麻酔をしたら2、3時間は麻酔が切れず試合に出られない」と告げられ、山口は麻酔なしで8針縫って、そのまま試合に臨んだ。