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「かかる暴挙は承認しない」“絶縁された自称名人”阪田三吉との将棋を「まかりならぬ」と言われようが…なぜ木村義雄は熱望したか 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byKyodo News/BUNGEISHUNJU

posted2024/02/11 06:02

「かかる暴挙は承認しない」“絶縁された自称名人”阪田三吉との将棋を「まかりならぬ」と言われようが…なぜ木村義雄は熱望したか<Number Web> photograph by Kyodo News/BUNGEISHUNJU

阪田三吉と木村義雄。交わることのなかったはずの大棋士2人が相まみえるまでに至った経緯とは

 大正14年3月の大阪朝日新聞には、阪田の実力と品性を絶賛する記事が掲載され、「阪田八段をいよいよ名人に推薦。京阪神の多数有志で盛大なる祝賀会と披露会」と発表した。関西政財界の有力者は後年の通産大臣や大阪倶楽部の会頭、ビール会社、製紙会社、毛皮商の社長など80人を超えた。さらに棋界や棋士を後援して《将棋の殿様》と呼ばれた伯爵の柳沢保恵も「名人に昇格の議、希望の至りに……」と共鳴した。

 阪田名人の祝賀会は同年4月に大阪の料亭で開催され、「将棋界の第一人者である阪田氏は国の宝だ。この宝を保護する意義から、名人に推薦することは当然の道だ」という祝辞が述べられた。

 ただ当時の阪田は「自由に将棋を指し、生涯を棋道に捧げたい」という心境で、名人を名乗ることは本意ではなかったという。当初は固辞し続けたが、関西棋界・政財界の有力者たちが担いだ神輿に乗らざるを得ない状況となっていた。

「かかる暴挙は承認しない」絶縁を通告

 阪田の名人自称について、東京将棋連盟の関根らの役員は緊急会議を開き、「かかる暴挙は承認しない」と決議した。そして、名人を取り下げない阪田との絶縁を通告した。その結果、阪田は中央棋界の棋士たちとの対局の場を失った。東西棋界の対立がもたらした悲劇でもあった。

 昭和の時代に移ると東京朝日新聞社、読売新聞社、東京日日新聞社、文藝春秋社、講談社など、新聞社や出版社がプロ棋戦を主催した。将棋ファンの人気を呼び、棋界は活況を呈すると、昭和10年(1935)に大きな動きがあった。

 その嚆矢となったのは関根十三世名人である。

 小野五平十二世名人の長寿で、名人就位が53歳と遅れた自身の苦い経験もあって——関根は「終生名人」の制度にかねてから疑問を持っていた。一度も勝負将棋を指さず「まるで床の間の飾りものだ」という心境だった。ただ300年も続いた制度を変えることの是非に逡巡していた。

水面下では「実力名人戦」の計画が進んでいた

 ただし、名人を実力で決めようという気運は、棋界内外ですでに高まっていた。

 中島富治、石山賢吉(ともに実業家で日本将棋連盟顧問)らは関根に名人退位を打診し、33歳も若い関根夫人も動かした。そして「将棋道を盛んにする最善の道です」という中島の一言に、関根はついに決断した。

【次ページ】 少年時代の升田に「木村名人を倒すのはあんたや」

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