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ラモス瑠偉に「文句言うなら来ないで」、あの名SBは起用法に激怒…“大モメした日本代表”がアジアの頂点に立つまで「森保一は“陰のMVP”に」
posted2024/01/22 17:00
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph by
Kazuaki Nishiyama
柱谷哲二がラモスに直言「もし文句を言いたいなら…」
1992年のアジアカップは、日本が初めてアジアの頂点に立った大会として知られる。史上初の外国人監督としてチームを指揮したハンス・オフトと選手たちは、チームに巣くっていたアジアへのコンプレックスを払拭し、翌年に控えるアメリカW杯アジア予選への自信を深めたのだった。
翌93年のJリーグ開幕に先駆けてサッカーブームが発火した裏側で、チームは様々なトラブルに直面していた。ジェットコースターに乗っているような日々を過ごしたのである。
さかのぼれば92年春の立ち上げ当初から、チームは問題を抱えていた。オランダ生まれのオフトが提示するサッカーに、ラモス瑠偉が拒否反応を示したのである。
ブラジルで生まれ、ブラジル色の強い読売クラブでプレーしてきたラモスは、ショートパスをつなぐサッカーにこだわりを持っていた。それに対してオフトは、ピッチを広く使ったサッカーを求めていく。8月に韓国、中国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との4カ国で競うダイナスティカップで優勝しても、ラモスは自らの主張を曲げなかった。このままではアジアカップで勝てないとの危機感を抱いた主将の柱谷哲二は、ラモスに強い口調で迫った。
「今回のアジアカップは、W杯予選の前にオレたちのレベルを確かめる機会なんだ。だから、チームに来たあとで『オフトのサッカーは嫌だ』とかいうレベルの話をされたら困る。もし文句を言いたいなら、チームに来ないでほしい」
大会開幕を前にラモスはオフトと話し合い、目指すべきスタイルに納得した。「すごくいい顔で来てくれた」と、柱谷は述懐する。
堀池巧が起用法に激怒、ラモスは胃炎を訴え…
8カ国が2つのグループに分かれたグループステージの初戦で、日本はUAEと対戦した。この試合では左サイドバックの都並敏史が、ダイナスティカップ決勝の退場処分で出場停止だった。このため、右SBのレギュラーである堀池巧が左SBで起用された。DF陣でひときわユーティリティ性の高い堀池は、堅実な守備で勝点1の獲得に貢献した。