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浦和レッズ伝説FWの引退後「政治は金がかかるね…」ブラジルで議員→スポーツ長官に転身のワケ「草サッカーチームの名はウラワ・レッズだ」
posted2024/01/22 11:03
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
ワシントンは浦和レッズ加入初年度となった2006年、Jリーグで26ゴールを挙げて得点王に輝き、クラブをJ1初制覇、天皇杯の2冠に導く原動力となった。翌年も活躍が期待される中で、指揮官がギド・ブッフバルトからホルガー・オジェックへと変わった。監督との関係性において、ワシントンはズレを感じ始めていたという。
「ギドとは良い関係を築けていたが、オジェックは気難しい人物だと感じた。たとえば、私は試合前日にシュート練習をするのが長年の習慣なんだけど、『疲れるからやめておけ』と言われた。それくらいで疲れるはずがないのに――(注:禁じられた居残り練習をしたため、先発を外されたことがあった)。この年、例年に比べて得点が少なかったのは、監督との軋轢でストレスがたまったせいだと思う」
オジェックとはうまくいかなかったが
それでも、浦和はAFCチャンピオンズリーグを制覇。クラブはオジェック監督との契約を延長した。
「オジェックとはうまくいかなかったが、自分としては2008年も浦和でプレーを続けたかった。良いプレーができる自信があった。しかし、クラブはオジェックの意向を汲んで、私とは契約を更新しなかった」
ちなみに、当時、主力の1人だったMFロブソン・ポンテは、「2007年でオジェックとの契約を打ち切り、ワシントンをチームに残すべきだった」と語っている。ただし、Jリーグと天皇杯の日程が終わっても、年末に日本で開催されるクラブW杯が残っていた。
「大会前、クラブ関係者から『来年は浦和でプレーしてもらえないが、ベストを尽くしてくれ』と言われた。そんなことは、言われるまでもない。プロとして当たり前だ。監督のためじゃない。クラブのため、サポーターのため、そして自らのプライドのために、死に物狂いでプレーすると決めた」
もし浦和に残っていたら…残念だ
準々決勝のセパハン(イラン)戦でゴールを決めて勝利に貢献すると、準決勝ではACミランに0-1で惜敗したものの、アレッサンドロ・ネスタら世界トップクラスのCBと互角以上に渡り合った。そして、3位決定戦のエトワール・サヘル(チュニジア)戦ではチーム全得点となる2点を叩き込み、さらにPK戦でもキックを決めて浦和が3位に食い込む立役者となった。