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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
5000m高校日本一、福島の“悲運のエース”はなぜ箱根駅伝を走れなかったのか? 小川博之45歳が明かす、国士舘大の4年間「箱根は親父の夢でもありました」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byKYODO
posted2024/01/01 06:03
都道府県対抗駅伝でも福島代表として活躍した小川博之。現在は国士舘大学の監督を務める小川が大学4年間を振り返る
「50人くらい部員はいたんですけど、練習しているのは10人いたかなって印象です。それこそ、下重先生の言葉が重たく感じましたね。自分をしっかり持っていないと、これは潰れるって。チームとして機能している状態ではなかったですから」
1年時は補助員「自分が走ったらな…」
チームとしてのまとまりを欠く中、1年生の小川は箱根予選会で奮闘。しかし、チームは10位と敗れた。予選落ちしたチームの選手は本戦の補助員に回るが、その年に沿道で目にした風景を小川はよく憶えていた。
「1年生の時は小田原中継所近くの陸橋で、人を止める役でしたね。酔っ払いと喧嘩してました。ここは通れませんって(笑)。確かその時、同じ1年生がレースに出ていたんですよ。神奈川大の5区で区間賞に近い走りをしていて(駒澤を逆転し、往路優勝)。そんなのを見て悔しかったし、自分が走ったらなみたいなことは思いましたね」
3年時にキャプテン「もうやるしかない」
2年生になってもチーム状況は大きく改善されず、箱根はやはり予選落ち。3年目を迎えるに当たって、小川に大役が任された。3年生ながら主将に任命されたのだ。部の歴史で初めてのことだった。
「もうやるしかないって感じでしたね。覚悟もありましたし、言うべきことは言いました。朝練に出てもすぐに帰ったり、走れない選手には『もう寮を出て行って下さい』って。何人かは下でついてきてくれる子たちもいましたので」
先頭に立つ覚悟は、個人としての成績にも表れる。3年生の時は関東インカレの5000mで優勝し、スペインで開催されたユニバーシアードでは10000mで5位入賞を果たした。
いま思えば、箱根への意識が強すぎた…
だが、チームはまたも予選落ち(14位)。いくら個人で好成績を残しても、気持ちが晴れることはなかった。