- #1
- #2
箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
5000m高校日本一、福島の“悲運のエース”はなぜ箱根駅伝を走れなかったのか? 小川博之45歳が明かす、国士舘大の4年間「箱根は親父の夢でもありました」
posted2024/01/01 06:03
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
KYODO
20余年という歳月は、悲しみを癒すのに十分な時間なのだろうか。
あの日のことを振り返る、小川博之の表情は恬淡としていた。
「泣いていたとは思います。当時の日テレさんの映像にもそのシーンが残っているので。ただ、ギリギリでダメだったわけではないのでね。チーム状況が良くなくて、私も万全な状態では(スタートラインに)立てなくて。ああ、終わったなという感じでした」
2000年10月21日、第77回箱根駅伝予選会で、キャプテンの小川が率いる国士舘大は10位(当時は6位までが本戦出場)に沈んだ。それは、彼が抱き続けた箱根駅伝出場の夢がついえた瞬間でもあった。
現在は、母校国士舘大の陸上部監督を務める小川だが、学生時代は“悲運のエース”として注目を集めた。大学1年生で出場した箱根の予選会で個人3位と好走。3年時には関東インカレの5000m王者となり、日本代表としてユニバーシアードにも出場している。
父親に誘われ、ランナーに
そんな選手がなぜ、4年間で1度も箱根駅伝に出場できなかったのか。思い出話は、小学生時代にさかのぼる。
小川が陸上を始めたのは小学2年の頃。父親に誘われたのがきっかけだった。当時からお正月になると箱根駅伝の中継を家族で見るのが習わしで、学生ランナーは幼心に憧れを抱かせた。
高学年になると、地元で「ふくしま駅伝」が始まり、その大会に出ることが目標となる。
元々走る才能に恵まれていたのか、頭角を現したのは早かった。
「SB食品が主催するちびっこマラソンで6年生の時に初めて全国大会に出たんです。一応そこで優勝しまして、だから瀬古(利彦)さんともその頃からつながりがあるんです。確か実業団の監督をされていたんですね」
ライバル・佐藤敦之
中学生になると、満を持して「ふくしま駅伝」に出場。学生時代に計8度の区間賞に輝く。その中で唯一敗れた相手が、同学年の佐藤敦之だった。後にマラソン日本代表として世界選手権やオリンピックで活躍する名ランナーだが、二人は自他ともに認めるライバルだ。