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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
「ああ、箱根駅伝走っていないんだ」と言われて…ニューイヤー駅伝で“悲運のエース”が抱いた劣等感 国士舘大監督は「だからこそ選手に箱根を走らせたい」
posted2024/01/01 06:04
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
Yuki Suenaga
父から託された思いも背負って、小川博之は最後の予選会に臨んだ。
場所は、この年から舞台を移した立川の昭和記念公園。小川の4年時は故障しがちで、万全とは言えない状態だったが、気持ちを奮い立たせてスタートラインに立った。
「確か私が第二集団を引っ張っていったと思うんです。最後の方で一つ下の堀口(貴史)という後輩にかわされて、彼はすごく頑張ってくれたんですけど、やはり後が続かずという感じで。私も個人12位とかでしたから、チームに迷惑をかけましたね」
届かなかった箱根駅伝。応援に来ていた父親は…
この年のチーム成績は10位。2人の留学生ランナーを擁する平成国際大と、今は常連校となった國學院大の2校が初出場を決める中、国士舘大は本戦通過の6枠内に滑り込めず、7年続けて涙をのんだ。
箱根駅伝に出たい。走りたい。まるで片思いにも似た熱情は、最後まで届かなかった。原っぱの片隅で肩をふるわせる小川の元に、福島から応援に来ていた父親がそっと歩み寄る。肩に手を置き、たったひと言、こう声をかけられたという。
「親父は『お疲れさま』って。そう言ってくれましたね。あの手の重みを感じられたのは、もっと後からだったと思います」
小学生の頃から一緒に走り続けてきた。直向きに努力する姿を誰よりも近くで見守ってきた。3年生でキャプテンという重圧を担い、苦しむ姿も知っていた。今、息子はどれほど悔しいだろう……。まさに万感の思いがつまった、労いの言葉だった。
翌々年に学連選抜ができる
チームが敗れても、今ならまだ学連選抜チームで走れる可能性もあるが、当時はその仕組み自体がなかった。選抜チームが作られたのは小川が卒業した翌々年のこと。小川のような選手を救うために制度ができたという話を聞いたことがある。