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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
5000m高校日本一、福島の“悲運のエース”はなぜ箱根駅伝を走れなかったのか? 小川博之45歳が明かす、国士舘大の4年間「箱根は親父の夢でもありました」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byKYODO
posted2024/01/01 06:03
都道府県対抗駅伝でも福島代表として活躍した小川博之。現在は国士舘大学の監督を務める小川が大学4年間を振り返る
小川は中1の時に全日本中学選手権の1500m1年の部で優勝。中2で同種目を勝ったのが佐藤である。小川は僅差の2位。福島県勢同士の激しい鍔迫り合いは、全国の指導者の注目を集めた。
だが、二人は高校でもチームメイトになることはなく、別の高校を選ぶ。高校時代に際立った成績を残したのは小川の方だった。
国体優勝、注目のランナーだった高校時代
田村高校に進学すると、同校の14年振りとなる全国高校駅伝出場に貢献。小川は1年生ながらエース区間の1区を任され、区間7位の力走でチームは全国4位と躍進した。翌年はさらに成績を伸ばして、同校は初の準優勝に輝く。個人としても、高3のインターハイ5000mで日本人最上位の2位、国体5000mでは優勝と全国にその名をとどろかせた。
これだけの成績を残せば、スカウトも引く手あまただったと思うのだが、なぜ当時低迷していた国士舘大を選んだのか。
小川がためらいがちに口を開く。
「今だから言えるんですけど、ある強豪校に決まりかけていたんです。ただ一方で、他の名門大からもスポーツ推薦で取りますという話が来て、うちの親父に相談したらその名門大のユニフォーム姿がぜひ見たいと」
内定を蹴って、名門大を受験。しかし、推薦入試に失敗した。推薦入試で落ちることはめずらしいことに思えるが、当時と今とではやや事情が異なっていた。たとえ大学関係者が入部を望んでも、試験に受かることが絶対条件だったのだ。
どんな環境でも、自分次第だよ
小川はしかし、後ろ向きな理由で国士舘入学を決めたわけではなかった。
「確かに低迷期ではあったんですけど、ちょうどその年の予選会で留学生相手に一人だけついていった先輩がいて、国士舘でもやれる人はいるんだなと思ったんです。それに、国士舘は高校の恩師である下重(庄三)先生の母校で、なじみはあったんですね。先生が『どこに行っても、どんな環境でも、自分次第だよ』って。そのひと言が胸に響いて、ここでやるぞって感じでした」
チームとして機能している状態ではなかった
ただ、やる気を持って入学したルーキーに、当時の陸上部の環境は優しくなかった。熱心に練習する学生の方が少なく、3年連続で箱根駅伝出場を逃していることもあって、チームには倦怠感のようなものがただよっていた。
当時を振り返り、小川が苦笑する。