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「はっきり言えば、クビでした」青学大・原晋監督が実業団ランナーを引退した日…「会社員としても戦力外に近かった」元選手サラリーマンの逆転物語
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byNanae Suzuki
posted2024/01/14 06:00
今や箱根駅伝の名物監督となっている原晋。現役時代はどのようなランナーだったのか
大学でもそれなりに実績を残したことで、地元の中国電力から選手として勧誘されることになる。しかし、故障続きで結果を残すことが出来なかった。
「私は中国電力が体育を専攻していた選手を採用したいちばん最初の選手だったんです。まさに『鳴り物入り』での入社だったのに、怪我でまともに走ることが出来なかった。1年目の夏合宿で、ねんざをしたんです。たかが、ねんざと思うでしょう? 選手生命に関わります。今も、学生がねんざをすると、すぐに休ませます。私の現役時代は中途半端でした。治ってはまた怪我をする、その繰り返し。そのときの私には、陸上でメシを食っていくんだという覚悟も度胸もなくてね」
テレビで陸上なんて見る気もしない
結局、入社5年目に引退に追い込まれた。
「引退じゃないです。はっきり言えば、クビでした。陸上で就職できたのに、まったくもっていい加減なヤツだと思っていた人もたくさんいたと思います。だから、テレビで陸上なんて見る気もしない。監督になるまで、ほとんど陸上とは無縁の生活をおくりました」
子ども時代、家の裏には瀬戸内海の内湾が広がっていて、気が向けば海に飛び込んでいた。中学時代も走るのが好きだった。しかし、20代になって陸上が就職を決め、そして自分の評判を貶めてしまった。
陸上から離れたことが、最終的に青山学院大との接点を作ることになる。現役を引退したあとの社内での状況は、原の言葉を借りれば「人格も否定されたようなもの」だった。そこで生まれてきたのは、人としてのプライド、尊厳だ。
これからの人生もずっと見られているんだよ
仕事で実績を残す。それが原に残された道だった。
「選手をクビになって、私が救われたのは陸上部長を務めていた方から、『陸上では花が開かなかったけど、これからの人生もずっと見られているんだよ。しっかり仕事をやりなさい』という言葉をいただいたことです。これはありがたかった」
中国電力の会社組織は、まず本店があり、支社、営業所、その下にお客様に対応するサービスセンターという構造形態になっていた。選手時代は優遇され、本店勤務という扱いだったが、引退後は営業所に回され、それからサービスセンターに配属にもなった。
原の営業メソッド
「会社員としても戦力外通告に近かったですね。『陸上バカ』には何も出来んだろうと、考えられていたと思います」