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世界的名手ペリエが「もう乗りたくない」…ステイゴールドはなぜ惜敗を繰り返したのか? 相棒・熊沢重文に聞く“肉食動物並”のクセ馬伝説
posted2023/12/23 11:03
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph by
JIJI PRESS
平地と障害の“二刀流”を志した理由
熊沢重文さんは、1968年1月25日、愛知県刈谷市に生まれた。父が、同じく刈谷出身の南井克巳(元騎手・調教師)さんの父と入院先で同室になった縁から、騎手への道を志すようになった。
「子どものころはまったく競馬に興味はありませんでした。だから、競馬学校に入る前に見た思い出の馬とか、印象に残ったレースなどもないんです。ただ、自分にはこれしかないと思っていましたし、馬を世話することが大好きになったので、競馬学校での日々が特別厳しいとは感じませんでした」
1986年3月、栗東・内藤繁春厩舎の所属騎手としてデビューし、1年目は30勝。同期の勝ち頭は、その年40勝して新人賞を受賞した松永幹夫調教師だった。
「幹夫の成績は抜けていましたね。引っ張ってくれる存在だったので、ついて行かなきゃと、さらに頑張ることができた。ライバルというより、普通に仲のいい同期でした」
そう話す熊沢さんは、デビュー2年目から障害レースに騎乗し、引退するまで通算257勝という障害歴代最多勝記録を樹立した。2015年には、JRA史上初の平地・障害200勝という偉業を達成している。
「たまたまアンチャン(見習騎手)のころから、障害練習をしたり、障害に下ろす馬に乗ることが多かったんです。それでも、障害のデビュー戦が決まったときはびっくりしました。たまたま乗り役が見つからなくて、当週になって騎乗が決まったんです。覚悟する間もなかった。とはいえ、普段から障害に出る馬を自分でつくっていたので、自信を持って臨みました。楽しかったですよ。あのとき怖いと思っていたら、やめていたと思う。自分で調教した馬が、教えたとおりに障害を跳んでくれると、自分のしてきたことは間違っていなかったと、身をもって感じられるんです」